◆弁護団紹介

弁護団のみなさん、いつもありがとうございます!

 私達の裁判は、公判のたびに毎回、はるばる大阪から佐賀までお来しいただいている 冠木克彦弁護士武村二三夫弁護士大橋さゆり弁護士谷次郎弁護士 の4人の弁護団、そして、裁判特別補佐人の小山英之さん(美浜の会代表)という最強チームのご尽力があったからこそ、ここまで闘ってこれました。また、2017年12月1日の法廷より、新たに中井雅人弁護士に弁護団に加わっていただきました。

 私達市民と同じ志を持って、法廷を舞台に闘ってくださっている弁護団のみなさんに、自己紹介をお願いしました。

 弁護団の先生方、いつも本当にありがとうございます!

■冠木克彦弁護士

 平和の問題にずうーーっと取り組んできました。弁護士になったのも自由に発言できるからです。自衛隊掃海艇派遣、カンボジヤ派遣違憲訴訟、日の丸君が代強制に反対し、今は大阪市の不当労働行為に対する訴訟などで大忙しです。変わり種では「脳死」臓器移植に反対し強制連行の救済につとめています。家族は20歳下の「若?」妻と健常の娘と知的障害の息子がいます。18歳になりますが「天使のごとき君」で「パパジョ」「パパジョ」と大好きなパパから離れようとしません。日本ダウン症協会員です。原発訴訟は93年高浜2号99年プルサーマル以来ずーーと小山さんと武村先生の力でやれてこれました。皆さん方これからも廃炉に至るまでずーーーーとお付き合いください。

■武村二三夫弁護士

 1975年弁護士登録 63才です。70年安保の時代に学生生活を過ごし、労働事件や公害事件をやりたくて弁護士を志望しました。九州のご縁では、現在熊本地裁で松橋再審請求事件に取り組んでいます。事件の種類はなんでもやるようにしていますが、労働事件(組合側)の比重が大きいです。大阪拘置所凍死事件、西成警察署傷害事件、西日本入管センター中国人骨折事件など密室人権侵害で国側の責任を認めさせました。また選挙権の関係では、西成労働者の投票権を認めなかった大阪市に損害賠償請求を命じた2011年11月9日大阪地裁判決、懲役に服した者の投票権を否定する公職選挙法の規定を憲法違反とした2013年9月27日大阪高裁判決を得ることができました。

 刑事事件はあまり多くないのですが、日弁連として取り組んだ1994年高松高裁榎井村再審無罪事件を含め5件の無罪事件を得ています。高浜原発差止訴訟、大腿四頭筋短縮症訴訟などは冠木弁護士と一緒に取り組みました。弁護士会の活動にも参加し、特定秘密保護法反対、さらに集団的自衛権容認反対の取り組みを行っています。

 体力の衰えを感じながら、週二回のテニスをしています。最近スピンサーブの威力が増し、速く鋭く落ちるようになったと言われて、意を強くしています。

■大橋さゆり弁護士

 1999年登録、弁護士15年目に入ります。市役所職員を5年間やって、その後に司法試験専念期間があったので、昨年中に五十路に踏み込みましたがキャリアはそんなに長くありません。

 本を読むのが好きだったせいか、「正義感」という言葉に弱く、自分は正しくありたいし、社会的弱者は救済しないといけないし、女性は男性と平等でないといけないと思って、ともかく大学は法学部を選びました。

 大学で、様々な差別問題に触れる機会を得て、自分の「正義」の幅はだいぶ緩く広がりを持つに至りました。その上で、進路としてはやはり、なれるものなら弁護士が社会の役に立ちそうだと思って、公務員生活との二足のわらじで司法試験勉強を始めました。

 しかし司法試験は、論文を書く手が遅い私には難関でした。今でも書面を書くのはスラスラとはいきません。頭の切れもよくないと自覚しています。

 でも私の持ち味は、依頼者に寄り添おうとする気持ちだと思っています。忙しくなると持ち味が薄れそうですので、なるべくゆったり、佐賀に来たら佐賀に溶け込みたいと思って通っています。

■谷次郎弁護士

 1972年生まれの41歳。弁護士2年目です。幼少期に父の転勤の関係で鳥栖市に2年ほど住んでいたことがあり、また、私の名前の由来が佐賀県出身の作家・下村湖人の代表作である『次郎物語』とのことで、佐賀には親近感をもっております。妻と3人の子がおります。

 大学の法学部に入った1991年から原発反対運動に関わるようになり、同年10月に提訴された高浜原発訴訟(冠木・武村両弁護士が弁護団に参加)の原告になりました。裁判での意見陳述でうっかりと「弁護士になる」などと言ってしまったのですが、司法試験の合格に時間がかかり、ようやく40歳で弁護士になりました。

 弁護士になった暁には原発訴訟に関わる機会があればと思っておりましたので、弁護士1年目から玄海訴訟弁護団に参加させて頂いたのは大変光栄なことです。

 皆様の運動に敬意を表しつつ、今後とも微力ながら取り組む所存です。

■中井雅人弁護士

 2015年弁護士登録、弁護士3年目に入ります。私は、法学部出身ではなく、しかも在学中のほとんどは学業とは無関係なことで過ごしましたが、卒業前の約1年、一念発起し、外国人労働者に関する卒論を書いたことや、大阪にあるTRY(外国人労働者・難民と共に歩む会)という支援団体に加わって活動したことなどをきっかけに、労働者や労働組合、外国人をはじめとしたマイノリティの権利のために闘う弁護士になりたいと思い、弁護士を志しました。弁護士登録と同時に暁法律事務所(東京)に入所し、2017年1月、生まれ育った大阪で「暁法律事務所」を独立開業しました。

 思い返してみれば、大学時代に広島の平和記念式典に参加したり、法科大学院在学中に福島原発事故があったり、司法試験浪人中は斉藤和義さんの「ずっとウソだった」を聞きながら勉強したり、司法修習中には原発訴訟も取り上げたシンポジウムに実行委員として参加したり、と原子力や原発にも関心があり、「きっかけ」があれば原発訴訟に関わりたいと思っていました。
このたび「きっかけ」をいただきました。運動から勉強させていただくと同時に、微力ながら運動の成功に貢献したい所存です。

 

■小山英之補佐人

 2008年、関西規模で六ヶ所再処理問題に取り組んだとき、学習討論会に見なれぬ夫婦が出席して、佐賀から様子を窺いにきたという。その石丸夫妻との出会いが縁で翌年2月、佐賀市にMOX輸送問題を話しに出かけたのが、今に続く佐賀との腐れ縁(いや失礼、良縁)の始まり。その年は県交渉などで12回も佐賀に出向き、あげくはその流れで、裁判にも取り組むことになり、弁護団の正式な補佐人を勤めている。

 1999年に高浜4号のMOXデータ不正を暴いて以来、翌年は福島第一3号のMOX裁判で会議の度に海渡事務所に通って福島地裁の証言台にも立ち、次の年は新潟の刈羽村住民投票の支援に、2009年には石巻市で北大の奈良林教授と壇上で相対するなどしてきた。これらを集約し、福島原発事故を踏まえて、玄海3号MOX裁判の終盤に臨みたい。

 専門は元は素粒子論で、素粒子論グループの同学年に益川敏英氏がいたが、彼とは冗談話をした記憶しかなく、私と同じく南部モデルに関心があったことを後で知った。場違いの分野に就職し、最後はニューロンの解析など行ったおかげで、確率論はよく勉強した。

 1940年に南但馬の竹田町で生まれ、幼児の頃から畑仕事や約30羽の鶏の世話など祖母の仕事相手で、「畑の草とりは小口から(端から順に)」が今も耳に残っている。ただのド田舎だったが、最近、竹田城(虎伏城)跡が"天空の城"として脚光をあびている。


■小山さんとの出会い 石丸初美

小山さんは、私たちの4つの裁判特別補佐人として、また政府交渉など地元ではできない運動を大きく支えていただいています。

 私は、2006年プルサーマルの勉強会から運動に参加しました。理論的な問題も避けられない大変な運動で、本を読んでも理解不能の私は、ネットで原発勉強会情報を探しました。その時大阪で「参加自由、大歓迎」が目に止り、日帰り可能だから行ってみようと夫と旅行気分で思い立ったのが小山さんとの最初のご縁です。講演会のようなものを勝手に想像していた私たちはドアを開けたとたん、「場違いなところに来てしまった~」と一瞬引き返そうかと戸惑ったのを今でも覚えています。「どうぞ、どうぞ」と歓迎していただきました。美浜の会事務局長の島田清子さんやグリーン・アクションのアイリーンさんもご一緒でした。会議室で和やかな雰囲気の勉強会でした。テーマは「六ヶ所再処理工場のガラス固化体問題」でした。私はその時「玄海3号機のプルサーマルを止めるために、助けてください」と連帯のお願いをしてきました。

 2010年からといわれてきたプルサーマルは、「09年暮れには玄海3号機で日本初プルサーマル開始か?」と急浮上。そんな時小山さんからメールが届き、「押しかけになったら申し訳ありません。勉強会をするならいつでも協力します」と優しくありがたいお声かけがあり、感激しました。2009年は、MOX搬入から運転開始まで大変な年で、月に一度の割合で佐賀まで通ってくださいました。運動から裁判に至り、4つの原発訴訟を担って頂いている4人の弁護団も小山さんのつながりで、感謝しかありません。夫は自称"佐賀の小山さん健康管理担当者"としていますが、ファンでもあります。皮肉にも原発が縁でつながった人の縁が、今私たちの心の支えになっています。