【「私たちはまっとうにいきたいのです」。亀山ののこさん、「原発はもういらない」という“母たち”の想いを法廷で力強く訴え】

【「私たちはまっとうにいきたいのです」。亀山ののこさん、「原発はもういらない」という“母たち”の想いを法廷で力強く訴え】

12月1日、佐賀地裁で玄海原発の稼働差止を求める行政訴訟第16回口頭弁論、全基差止第24回口頭弁論が開かれました。

福岡県糸島市在住のフォトグラファー、亀山ののこさんと、大分県の牧師、野口春夫さんが意見陳述を行いました。

ののこさんは、避難に至るまでの悔しさ、写真家としての使命感、「どんな状況にあっても、子どもを守りたい」という母として絶対に譲れない思いを、全国の同じ思いの「母たち」の念を込めて、力強く訴えました。

野口さんは自らの戦争体験や、福岡や佐賀での教員時代に感じた原発との接点や教え子たちのこと、今暮らす津久見での出来事を振り返りながら、人間の尊厳を問う陳述を行いました。

胸に迫る意見陳述、全文をぜひお読みください。

 

弁論では、最大の争点、基準地震動問題で国が証拠のデータ改ざんまで行ったことや、「入倉三宅式」がいかに根拠薄弱なまま金科玉条のように扱われているかを弁護団は徹底追及しました。法廷は熱を帯びています。

詳細は法廷報告のブログでご確認ください。
→コチラからhttps://saga-genkai.jimdo.com/2017/12/04/a/

 

次回法廷は3月23日(金)14時~。再稼働を止めるんです!大注目です!


陳 述 書

2017年12月1日

佐賀地方裁判所御中

住所 福岡県糸島市

氏名 亀山ののこ

 

(1)

 私は写真家をしています。東京で生まれ育ち、33歳まで東京を離れたことがありませんでした。

 写真とは18歳で出会い、自分が生きている意味を実感しました。大学卒業後、プロカメラマンとしてキャリアをスタートさせ、20代は雑誌や広告などの仕事に無我夢中で邁進していました。31歳で結婚をし、33歳、双子の息子を授かりました。

 私の実家は東京の東大和市という自然豊かな場所にあり、家の周りは雑木林に囲まれていました。

双子が生後4ヶ月の時、これからは私の父や兄家族の側で、自然の中で息子たちを育てていこうと、故郷の家に移り住むことにしました。母はすでに亡くなっており、一人暮らしだった父が孫たちの世話を手伝ってくれました。そしてその2ヶ月後に3.11が起こりました。

 

(2)

 私はそれまで原発というものに無関心に生きてきました。原発の原料となるウランが採掘される時も、運搬する時も、発電所で作業がなされる時も、どこかの土地やそこで働く誰かが被曝しているということを知りませんでした。捨て場のない核のゴミが増え続けていることも知りませんでした。

 双子たちにおっぱいを飲ませながら、ノートパソコンを膝に乗せ、懸命に調べました。チェルノブイル事故の時、1600キロ離れたドイツでも放射能汚染が問題となったと知り、約200キロの東京は危ないんじゃないかと考えるようになりました。ガイガーカウンターを買って、庭の雨どいの下を計測しました。0.4マイクロシーベルトを検知しました。東京の水道水からも放射性物質が検出されました。

 それでも政府や報道、テレビは、影響ない、食べて応援、絆と言い続けました。私は、政府のことも報道も鵜呑みにしてはいけないのだと、人生で初めて痛烈に感じました。

 自宅窓から見える、私が育ってきた森、子どもたちもここを自由に駆け回って育つだろうと思っていた森。

その森にも等しく放射性物質は降り注いだのだと思うと、見た目はそのままに美しい森がまるで違って見えました。取り返しのつかない汚してしまったものの大きさ、一人ひとりの大人の責任の重さを遅ればせながらやっと感じたのです。

 

(3)

 原発事故から1ヶ月、双子の赤ん坊を抱え、仕事にも復帰をし、だけどこの原発の問題に向き合うと決心をしました。当時、放射能を心配する母親たちのことを、神経質だとか、放射能ノイローゼだとか、証拠を示せだとか、様々な批判の言葉が飛び交いました。

 自分の子どもを守るという生き物としての本能を否定される社会は恐ろしいと思いました。

 どんな状況にあっても、子どもを守りたい。それが母親たちの共通の願いです。そしてそのためには、もう原発はいらない、これ以上核の汚染を繰り返してはいけない。このシンプルな道こそ、私たち一人ひとりが声を上げていかねばならぬものだと強く思いました。

 そして私はその思いに共感してくれる母たちを募り、母子の写真を撮り始めました。2011年、4月のことです。ブログで思いを綴ると会ったこともないたくさんのお母さんからメッセージが来ました。どう声をあげていいか分からなかったという、普通のお母さんたちです。一人ひとり会いに行って撮影をし、この声が一部のものではないと知らせるために、100人は絶対に撮ろうと決心しました。

 そして2012年、原発はもういらないと声をあげた母たちの写真集「100人の母たち」を出版しました。

 新聞、雑誌、テレビ、多くのメディアに取り上げられ、全国の有志の方たちによって、100カ所以上で写真展が行われました。お隣の国韓国でもソウル市庁のロビーを始め、50会場で開催されました。

 それはひとえに、もうこの世界のどこでも原発の事故を起こしてはならないという、どこまでもまっとうな願いによるものです。

 

(4)

 2011年8月、私たちは家族会議を重ね、東京から福岡へ移住することにしました。安心して食べ物を買える。窓を思いっきり開けられる。海で泳げる。山を歩ける。水道の水を飲める。雨にも濡れられる。洗濯物や布団を思う存分干せる。子どもに泥遊びさせられる。そうした当たり前に思えた、だけど何より大切な日常の喜びを味わいました。

 今暮らす糸島は海に山に川に農作物に恵まれた、本当に愛すべき土地です。この土地は、私たち世代だけのものではありません。これから先の子どもたちにも残していかなければなりません。人間だけでなく、様々な動植物の生態系が織り合わさって生きています。

 しかし、糸島市は玄海原発から30キロ地点にあります。

 

(5)

 今年の3月23日、玄海原発の再稼働に向け、糸島で住民説明会が行われました。到底受け入れることの出来ない説明ばかりされていました。その中でも、九州電力取締役山元春義さんは「どうして原発を再稼働しなくてはいけないのか?」という問いに

「2011年に玄海が止まり、厳しい電力需給の中、火力発電も動かした。他電力から買ってお届けするという悔しい思いもした。今後は福島の経験を九州電力としてしっかり捉えて、川内そして玄海原発を復帰させて安定した電気をお届けしたいのでご理解頂きたい」

と述べたのです。福島の事故が起きて、本当に悔しい思いをしたのは誰でしょうか。

 今も増え続ける、小児甲状腺癌という病を患ってしまった子どもたちへ思いを馳せることはないのでしょうか。

 「原発さえなければ」と遺言を残し自ら命を経った酪農家さんへの一雫の申し訳なさも感じないのでしょうか。

 

(6)

 私たちはまっとうに生きたいのです。

 福島の事故で、原発はどんなに安全対策をしたとしても事故は起こってしまうものだということがはっきりしました。玄海原発で事故が起きれば、偏西風に乗って九州はもちろん四国、中国、近畿、関東、東北、北海道まで放射性物質が飛散し、夥しい数の市民が被曝します。そして世界中の海や土地も汚染します。 

 福島原発の2号機では今も650シーベルトという数十秒で人が死に、ロボットさえも数時間ももたないような前代未聞の状況が続いているのです。 汚染物の入ったフレコンバックは増え続けています。原発の事故は分断や貧困、いじめを引き起こします。いつでも何の罪のない子どもたちが被害者となります。

 どうか私たちの道徳心を歪ませないでください。子どもたちに、間違った道は正せるんだよという、当たり前のことを教えさせてください。

 

(7)

 糸島で暮らして4年。3.11のとき生後6ヶ月だった双子の息子は今、小学一年生になり、地域の人に見守られながら学校生活を満喫しています。放課後には海、川、山で駆け回って遊んでいます。糸島で生まれた3番目の息子も健やかに育っています。

 私の願いは、この日常を守りたいということ。ただ安心して暮らしたい、その憲法でも認められている権利がこのままずっとこの土地で守られていくことです。そしてそれを守る国であってほしい。

皆んなが考えを新たに、安心して信頼しあえる未来を築いていくために、玄海原発の再稼働をどうか許さないでください。

 

今日はお話を聞いてくださりありがとうございました。感謝致します。

 

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2017年12月1日 意見陳述 亀山ののこさん
20171201意見陳述亀山ののこ.pdf
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陳 述 書

2017年12月1日

佐賀地方裁判所御中

住所 福岡県福岡市

氏名 野口 春夫

 

(1)

 私は大分県津久見市で牧師をしている野口春夫と申します。津久見市と福岡市を行ったり来たりする生活をしています。今日はこの機会をお与え下さった事に感謝致します。

私は1941年日本が無謀なアメリカ合衆国との戦争を始めた年に、日本が侵略して作った国旧満州、現在の中国東北部の大連で生まれました。4歳の時、日本の敗戦を迎えるのですが、日本に引き揚げるまでに外地での人間同士の見苦しい争い、女性を守るために女性たちを男装させる苦労、私を買いに来た(「預けなさい」と言う)中国人を追い返すまでの母親の苦労、日本に帰る順番を早くするため他人を騙すこと、等々を成長して母から聞きました。今でも思い出すのは大陸からの引き揚船上で亡くなった人のことです。本土を見ないで亡くなった方は、布切れに包まれて板の上を滑らされ、海に落とされ、魚の餌食となり終わりという、人間の尊厳は何も無い儀式を見たことです。

 

(2)

 引き揚げて来て福岡市に住みました。1982年に九州電力が福岡市内に「九州エネルギ-館」を造りました。ここには、市内外の多くの学校の生徒や一般の社会人が見学に来ていました。館内では模型でしたが、本物と同じ大きさの玄海原子力発電所原子炉の発電機能が見せられたものです。「これからの発電エネルギ-は、石炭でも石油でもなくコストが安い原子力である」という「原子力信仰」が見学者に刷り込まれました。当時は原子力発電が一歩間違えば、広島・長崎に落とされた原爆と同じで、大変危険なものだとはつゆ程も知りませんでした。それどころか未来の電力はこれだと思い込まされました。

大学を卒業し、佐賀県と福岡県の県立高校に奉職しました。福岡で最初に勤めたのが現在の糸島市にある農業高校でした。学校の前の国道202号線を「放射能のマ-ク」を付けた車、その前後には厳重に守る警備の車列が定期的に通っていました。それは勿論玄海原発にウラン燃料その他を運ぶ危険なものでしたが、いつからか船で運ぶようになり、見られなくなりました。この高校は当時、佐賀県の高校の学区も特別に引き受けており、玄海原発から20キロ付近の佐賀県浜玉町(今の唐津市)のミカン農家の子弟も県境を超えて通学していました。

二番目に勤めた高校は工業高校でした。この高校の電気科・工業化学科では、卒業して九州電力や電源開発に入ることが大きな目標の一つであり、生徒たちは就職試験の受験先推薦を受けるため勉学を競ったものです。ですから電力会社に就職が決まると他の科の職員も喜んだものです。電気科ではカリキュラムに工場見学があり、生徒は3年間の内一度は玄海原発を見学に行きました。工業高校に通った生徒たちは、小学校か中学校で「エネルギ-館」を見学し、工業高校の電気科等に入ると今度は模型でなく、本物の原子力発電所を案内され、「夢のエネルギー」という「原子力信仰」を二重に「教え込まれた」のです。

定年退職後、私は神学部に入り直し牧師になりました。そして今住んでいる津久見市にある教会の牧師になって15年になります。津久見は「セメントの町」です。セメントの原料がとれる所は地盤が固いので、かつて原子力発電所の候補地に挙げられましたが、住民の建設反対運動もあり、建ちませんでした。

 

(3)

2011年3月11日、「東日本大震災」が起こったあの日、ここ佐賀地方裁判所では「プルサ-マル裁判」の第二回口頭弁論が開かれており、私も傍聴に駆けつけていました。入廷直前に、東日本で大地震が発生したとの速報が入りました。地震と津波に襲われた原子力発電所も大事故になるかもしれないと、みな口々に心配していました。そして、東京電力福島第一原発では、専門家も指摘していた甚大な大事故へと発展してしまいました。今も避難して故郷に帰れない人が10万人近くもいるのです。

ところでセメントを生産するには、石灰石だけではなく、必ずその他の原材料も混ぜなければなりませんが、大震災の後、震災で発生したガレキを津久見に持って来てセメントの原料に使おうという動きがありました。しかし、放射能汚染を心配した子育て中のお母さん方が中心になり、署名を集めたり、新聞にチラシを入れたり、「ガレキ受け入れ反対」の運動が起こりました。大分県主催の「説明会」でも、放射能による健康被害を心配して、受け入れ反対の声が続出しました。私が「放射能被害が出たら責任を持てるのか」と質問すると、説明者の一人は「放射能は身体に入っても、トイレで排泄するから、大丈夫」などと回答しました。本当に驚きました。結局、大分県は「ガレキの津久見への受け入れ」を諦めざるを得ませんでした。

今は、福島の石炭火力発電所で使ったオ-ストラリア産の石炭の燃えカスをセメント材料としてセメント会社は使っているようですが、市民団体では常時「放射能」の測定を行って監視しています。

この放射能こそが問題なのです。

 

(4)

 かつて大分県では、四国電力の伊方原子力発電所が事故を起こせばそこから放射能が海上を直線距離でやってくるというので、伊方原発設置反対運動が繰り広げられてきました。そして今、東京電力福島原発事故、及び事故処理の様子を見て、これではいけないと「伊方原発の廃炉を求める裁判」も起きています。

津久見市には玄海原発の事故の時には山越えで放射能が、伊方原発からは海上を60キロ真っ直ぐに放射能等がやってきます。両方が同時に事故を起こすと、放射能が「ステレオ」でやってくるのです。リアス式海岸と山に囲まれ、マグロやミカンなど海の幸、山の幸の豊かなこの津久見の町に住めなくなってしまうのではないかと、私たちは戦々恐々としているのです。

 

(5)

私には辛い出来事があります。あこがれの九州電力に就職した教え子が卒業して数年で自ら命を絶ってしまったのです。理由は分かりませんが、この教え子の死は忘れることはできません。

そして、私には心配なことがあります。もしも、玄海原発が事故を起こしたら、佐賀や福岡の教え子たち、それに元同僚の教師たちを含む多大な人々が一番に放射能の被害を受けるかもしれないと。勿論私自身は「ステレオ」で原発事故による放射能の被害を受ける危険の中にあるということから解放してもらいたい願いがあります。

原子力発電所の広報宣伝を行い、「原子力信仰」を植え付けていた「九州エネルギ-館」も東京電力福島原発事故を機に、2014年3月、約700万人の方々に「原子力信仰」を宣教して閉館になりました。今はマンションの用地になっているようです。

 

敗戦の引き揚げの混乱の中で、人間の醜い争いを見て来て育った者として、原発事故後の混乱等が重なって見える時、その様な心配が無いところに日本を変えて貰いたい、そのためにエネルギ-館と同じように原子力発電所が静かに消えていただくことが-宗教者の願いであります。

 

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2017年12月1日 意見陳述 野口春夫さん
20171201意見陳述野口春夫.pdf
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■報道

◆佐賀新聞