意見陳述書


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佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号 
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件

第21回口頭弁論公判(2019年3月22日)における意見陳述です。

陳 述 書

2019年3月22日

佐賀地方裁判所御中

住所 福岡県久留米市
氏名 青野 雄太

1. 自己紹介

 青野雄太と申します。久留米工業高等専門学校機械工学科准教授として勤務しています。私は九州大学工学部で機械工学を学び、大学院に進学・修了後、助手として働きながら学位を取得し、6年前に久留米高専に赴任しました。専門分野は材料力学で、材料の強度に関する研究をしています。

 

2. 学生時代の経験
 大学に入学する2年前にチェルノブイリ原発で炉心溶融、爆発事故が起こりました。この頃は原発の危険性は漠然と感じていましたが、特に強い関心はありませんでした。大学3年のとき、日本機械学会学生会主催で、玄海原発3,4号機の建設現場の見学という行事があり、同級生と参加しました。主にエネルギーパークを見学し、期待した実際の建設現場は何故か見ることができませんでした。九州電力の方からは「原発は絶対安全です」と繰返し言われ、帰りに友人と「あの言い方は怪しいね」と話しました。
 記憶が正しければ大学4年前期に原子炉工学大要という選択科目を受講しました。沸騰水型や加圧水型の原子炉の基本的な内容でした。いざとなったら圧力容器に水を入れれば大丈夫だ、と先生が話していたことを覚えています。福島原発事故では実際にそうしなければならない事態になりましたが、炉心は圧力容器から漏れています。どうすれば安全な環境にできるのか、いまだ見通しがなく汚染を止められません。同級生に会うと「大丈夫じゃなかったよね」と今でも話題にすることがあります。その後、西尾漠氏の「原発を考える50話」を読み、原発はやめるべきだと考えるようになりました。

 

3. 玄海原発1号機の脆化問題
 原発について自分でも調べるようになったのは玄海原発1号機の脆化問題を知ってからです。福島原発事故が起こる3か月ほど前、市民運動をされている方から「玄海1号機で脆性遷移温度が98℃になっているというがどういうことか、あなたは何かわかるのか」と聞かれました。現代の鉄鋼材料の常識的な脆性遷移温度は-10℃~-20℃です。初めて聞いたときは、この世にそんな鉄鋼材料が存在するのか、と驚きました。その後、東京大学名誉教授・井野博満先生を紹介していただき、原子力資料情報室が主宰する原発老朽化研究会に参加して勉強しました。最近、井野先生と京都大学名誉教授・小岩昌宏先生が共著で「原発はどのように壊れるか 金属の基本から考える」という著書を出版されました。この本に詳しい説明がありますが、ここでも概略を説明させていただきます。
 圧力容器の鉄鋼材料は中性子を浴びると、鉄原子がはじき出されて脆くなり、脆性遷移温度が上昇します。無傷であれば強い材料でも、一旦傷が入ると弱くなる場合があります。傷に対する強度が弱いことを「脆い」といいます。逆に傷に強い材料は、粘い、強靭である、または靭性が高いといいます。圧力容器は炉心を囲む重要な構造で、強靭である必要があります。圧力容器には監視試験片という容器自体と同じ材料でできた試験片が入っています。定期検査のときに適宜それを取り出して試験し、圧力容器が脆くなっていないか確認します。玄海1号機圧力容器の脆性遷移温度は運転開始前、-16℃でしたが、第4回監視試験片では98℃になっていました。圧力容器は30年以上中性子を浴び続けて脆くなってしまったのです。
 圧力容器の健全性評価は監視試験片のデータを確認するとともに、これから先の数年でどれくらい脆くなるか、という予測も行うことになっています。それにはJEAC4201という規格で示された予測式を使って行います。驚いたことに、第4回監視試験の元々予測されていた脆性遷移温度は56℃でした。実際はそれより42℃も高い98℃で、予測よりも極端に弱くなっていました。
 しかし、98℃という脆性遷移温度が得られた当時、九州電力は玄海1号機を運転継続しようとしていました。今回予測ははずれたが、42℃高い98℃の結果が矛盾しないように予測式を「改良」したから大丈夫だというのです。この時点で予測自体が破綻しており、今後の運転で安全と言える理屈はありません。高浜1号機でも同様に当初の予測を大きく超える脆性遷移温度が得られています。中性子照射脆化はまだまだ未解明の現象だということです。
 JEAC4201予測式は何度か改訂されていますが、当初は数十年分の中性子照射をわずか数日で照射した加速試験の結果を元につくられました。そして、実際の監視試験結果が増えるにつれて加速試験では予測できないことがわかってきました。最も新しいJEAC4201-2007では中性子照射脆化の物理現象を数式モデルで表現した予測式に改訂されました。しかし、2012年、当時の原子力安全・保安院が開いていた高経年化技術評価に関する意見聴取会で、予測式の求め方が物理的に誤っていることが明らかにされました。前掲著書には、誤りを発見した小岩先生と意見聴取会の委員であった井野先生によって、その詳細が述べられています。原子力規制委員会は、この誤った予測式を作成した日本電気協会に対し規程の再検討を指示しましたが、現在も是認したまま使われています。

 

4. 原発は今すぐやめるべき
 原子力規制委員会は脆化を予測できないのに予測と強弁しています。この脆化問題と同じような話が原子力についてはたくさんあります。福島原発では予測された津波高さより低い防波堤をつくり甚大な被害が生じました。しかし、火山の影響を受ける恐れのある原発でも再稼働が認められました。再稼働した玄海原発3号機は肉眼でも錆びたとわかるパイプから蒸気漏れが起こりました。結局、福島原発事故から何も学んでいません。過酷事故はいつかまた起こるでしょう。
 では、事業者が安全をしっかり担保すれば稼働して良いのか、というと、私は原発を今すぐやめるべきと思います。その理由については多くの方が説明していますが、ここでは持続可能でない点について述べます。ウラン燃料は長くて後100年で枯渇すると言われています。プルサーマルを併用すればそれが15%伸びると言われています。一方、使用済み燃料は使用前の1億倍の放射能をもつため、管理期間は数万年から数十万年に及ぶと言われています。危険なゴミの管理にかかる時間の方が圧倒的に長いにも関わらず、原発を運転し、さらにゴミを増やす理由はありません。6年前、ドイツに3か月留学させていただき、風力発電の現状を見る機会がありました。EUは自然エネルギー100%を目指してその利用を劇的に増やしています。自然エネルギーにもまだまだ課題はありますが、枯渇することはありません。また、原子力のようにその土地に住めなくなるような危険は一切ありません。今すぐに原発をやめ、自然エネルギーに舵を切るべきと思います。

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2019年3月22日 意見陳述 青野雄太さん
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平成23年(ワ)第812号, 平成24年(ワ)第23号, 平成27年(ワ)第374号
九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第29回口頭弁論公判(2019年3月22日)における意見陳述です。

陳 述 書

2019年3月22日

 

佐賀地方裁判所 御中

住所 佐賀市川副町
氏名 塩山 正孝

(1)

 私はNHKドラマ「いだてん」の舞台になっている熊本県玉名郡和水町という田舎の町で生まれ育ちました。緑に囲まれたのんびりした自然環境でした。そして今、佐賀市川副町に移り住んでもう30年近くになります。こちらも同様にのんびりした町ですので、私と相性が合うのでしょう。
 社会問題への意識をあまり持たずに生きて来た私の目を突然覚ましてくれたのが、東日本大震災と福島第一原発の大事故でした。

 2011年3月11日、私と妻は長女の熊本への引越の手伝いに行った帰りの車の中でした。突然下の娘から「今、日本のどこかで大変なことが起きてるよ!」と電話がかかってきました。すぐにラジオのスイッチを入れ、東北地方で大地震が発生して、巨大津波が海岸に打ち寄せて大災害となっていることを知りました。二人とも非常に不安な気持ちで我が家に帰ってきました。
 そして、福島第一原発が全電源喪失したと。その後の政府の対応にはイライラと不安を募らせるばかりでした。原子力の専門家たちがテレビに何度も顔を出して「安全だ」と説明をしていましたが、結局メルトダウンという最悪の事態となったわけです。原子炉を冷却しようと、自衛隊ヘリ隊員たちが空中から数トンの水を決死の覚悟で命中させようとしていましたが、これが日本の原子力技術だったのかと国の無力さに全く呆れてしまいました。
 全国の皆さんと同様に私も被災地にペットボトル水を送ったり、寄付金を送ったりしました。被害に遭われた方々が家族や友達や家までも流されたり、まさに地獄に突き落とされた状況にある時、この自分も現地に行って少しでも役に立つことをしなくてはと考えていました。そんなある朝、妻が「原発反対の人たちが県の図書館前の公園でテントを張ってるって、新聞に書いてあるよ。読んでみんね」と教えてくれました。私はその記事を読んだ後、自転車でテントまで飛んで行きました。
 その日から自分の国の不条理さを少しずつ知るようになりました。そして、一社会人としてそれまでなんの問題意識も持たずに退職生活に突入したばかりの自分に転機がやってきました。玄海原発を止めるための行動に加わったのです。

 

(2)
 3.11から丸8年が過ぎました。しかし福島原発事故は今もそのまま続いています。今、オリンピックの話題で賑やかですが、この今も"原子力緊急事態宣言発令中"なのです。帰還困難区域の人達は故郷を追われて、今なお帰りたくても戻れない。自主避難した人達はとうとう住宅支援も打ち切られました。さらには離婚に至るケースも数多く聞かれます。原発事故が多くの人々の人生を狂わせてしまいました。お金では取り戻せないのが原発事故です。
 私は若い頃、福島に2~3度旅行で行ったことがあります。福島の自然はとても素晴らしいものでした。安達太良山に登ったり、スキーをしたり、夜には宿で友人と美味しい酒を飲んだり、あの緑豊かな山々の美しい姿は今も私の青春の思い出の中に生き生きと残っています。その大自然に放射能が降り注ぎ、山々は人間が犯した罪に無言で泣き叫んでいると思うととても悲しくなります。

 玄海原発でもあのような或いはあれ以上の原発事故は絶対に起きないと誰が断言できるでしょうか。国の原子力規制委員会でさえ事故は100%起きないとは言えないと"断言"しているではないですか。
福島原発事故の時は太平洋側に大半の放射能が風に流されて行ったから、東京など大被害に会わずにすみました。あの時、風向きが反対だったらどうなっていたでしょう。もし、玄海原発で同じような事故が起きたら、九州はもちろん西日本あるいはそれ以上の広範囲に被害が及び、日本が破滅状態となるのではないでしょうか。
 2016年の熊本地震では熊本市内にある妻の実家もかなりの被害を受けました。庭のブロック塀は将棋倒しで倒れ、家の中では台所の床が割れたお茶碗などで足の踏み場もなく、床の間では仏壇が倒れてめちゃめちゃになりました。隣の家の庭では断層が走っていたようで地面が直線状に段違いになっていました。あんな激しい地震が1度ならず2度も発生したら原発も絶対に大丈夫とはいえないでしょう。日本列島のどこで大地震が起きても不思議ではないことがもう一般常識となった現在、玄海原発を直撃する可能性も大いにあります。しかし、玄海原発だけは人の手で止めることができるのです。命にかかわることだから、原発は何として止めなければなりません。

 

(3)
 しかし、私達が原発をもう止めて欲しいと心から願っても、どうしても立ちはだかるものがあります。それは"司法の壁"です。
 2015年3月20日、この法廷でMOX燃料使用差止裁判の判決言い渡しを傍聴しました。裁判長が法廷に現れ、「訴えを全部棄却いたします」とさっさと言い渡すや否や、後ろの部屋へ戻って行きました。判決を待っていた私達は「えーっ」と力がなくなりました。
 その時私はつくづく思いました。日本は遅れていると。この原発問題では理不尽なことが如何に明白であっても、今の日本では裁判所に棄却されることがほとんどです。いくら裁判に訴えても期待できないというのが正直な気持ちです。3.11福島事故で日本人は何も学ばなかったのでしょうか。安心安全な普通の生活を守るために、あのような危険なものをなくす努力が日本人一人一人に必要なのではないでしょうか。特に裁判官のみなさんは私達市民の生活を左右する強い決定権をお持ちです。
 昨年9月の伊方原発再稼働差止についての広島高裁仮処分異議審決定は「社会通念」という言葉を使って、住民の訴えを退けました。「社会観念」という文言を初めて使って女川原発差止請求を棄却した元裁判官は、「原発事故なんてめったに起こらないだろうと私自身が考えていた。理論上は『世の中の人がどう考えているか』という点で判断するが、無意識に裁判官個人の考え方が影響する」「裁判官は原発などの政治的問題の場合、よほど世論が明確にならない限り、現状維持を選びやすい」と語っています。(2018年11月22日付毎日新聞)そうなのでしょうか。
 最近街頭などで反対のチラシを配る時に感じるのは、町行く人たちの反応が以前とは非常に違って来たということです。以前は「原発が止まると電気が止まるから困る」とか「経済に悪影響を与えるから」などの容認の声をちょくちょく耳にしていました。しかし、今そのような声が聞かれなくなりました。「原発はもう要らない」という社会通念にはっきりと変化したといえます。

 福島の事故で日本のみならず世界中の多くの人々が何かを学んだと信じています。この日本が安全で安心な国となりますよう、是非、フェアなジャッジメントを期待いたします。

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2019年3月22日 意見陳述 塩山正孝さん
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佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号 
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件

第20回口頭弁論公判(2018年12月21日)における意見陳述です。

陳 述 書

2018年12月21日

住所 福岡県飯塚市
氏名 山口 明美

自己紹介

 私は1951年に原爆の投下された広島県で生まれ、現在67歳です。3人の子どもに恵まれ3人の孫がおり、来年5月にはもう一人孫が生まれる予定です。
 私に一人目の子ども(娘)が生まれたのは1980年。当時様々な環境汚染が表面化し、それによる健康被害が出てきていました。私が農薬や食品添加物などの化学物質による体への影響を心配し、不安を抱くようになったのもこの頃です。
 その不安から情報を集め学んでゆく中で、夫と私は娘のためにも体をつくる元になる食べ物は自給したいと、住まいを東京から夫の実家のある飯塚市へと移しました。
 畑を耕し、鶏を飼い、味噌やパンを作るという私達が思い描いていた生活が始まりました。
 私達の野菜作りには農薬はもちろん化学肥料も使いません。枯れ木などを集めて燃やした後の草木灰、私達の出した排泄物、鶏糞、枯れ草、枯れ葉を畑に入れ、後は自然にお任せする、というのが農業経験のない私たちの野菜作りでした。
 5〜6年が過ぎ、我が家流の野菜づくりと言えるものが定着しかけた頃、1986年4月26日、旧ソ連でチェルノブイリ原発事故が起こりました。この事故を知ることで、私達は原発を止めたい!と強く思うようになったのです。

 

チェルノブイリ原発事故から学ぶ
 チェルノブイリ原発事故で放出された放射能はジェット気流に乗って地球規模の汚染をもたらしました。
後で知って大変な衝撃を受けたのですが、当時1300km以上離れた旧西ドイツのミュンヘンでは、子どもが砂場で遊ぶのにも放射線防護服を着なければならない程の放射能(ヨウ素131)汚染があったのです。1300kmといえば福岡から北海道までの距離で、日本列島のどこかで原発事故が起これば、風向き次第で自分の住む町が汚染地域になりかねないということです。
 私達の住む日本はチェルノブイリから8000km離れていますが、各地でチェルノブイリからの放射性ヨウ素131が観測されました。その中でも千葉市では雨水1リットル中13300ピコキュリーが観測されたのです。日本政府は「原子力発電所周辺の防災対策について」の中で、1リットル当たり3000ピコキュリー以上汚染された水を飲んではならないと定めています。この時千葉市に降った雨はこの規制値の4倍以上、まさに非常事態だったのです。この事を一体どれだけの人が認識できていたでしょうか?
 放射能の雨は畑や田んぼを汚染し、野菜も汚染しました。
 放射能の影響は幼いものほど大きいと言われています。だから大人よりも子ども、子どもよりも幼児、胎児のほうが影響は大きい、そんな大事なことを私は知りませんでした。
 当時私には3番目の子どもがお腹にいました。原発事故が遠くで起こり、朧気ながらの不安はあっても、放射能に関する知識はありませんでした。政府からの「野菜は念のためよく洗ったほうが望ましい」と言う発表があった時も、それ以外の情報はあまりなく、「大丈夫かな?」と疑いながらも、とりあえず普段よりは丁寧に洗ったのを覚えています。食卓の上に並ぶのはそれまで通り野菜中心でした。よく洗ってもヨウ素131の落ちるのはせいぜい2割と知ったのは、半減期の短い(8日)ヨウ素131の毒性を気にしなくても良くなった10月末の頃でした。

 物理学者だった故藤田祐幸さんの著書を読むと、そこには次のような言葉が並んでいました。打ちのめされました。「僕は5月4日から6月22日まで野菜を食べなかったんです。政府の出した6月6日の安全宣言までに放射能は10分の1に落ちました。それでも僕は我慢して100分の1に落ちるのを待ちました。大人にとってはこの放射能による被曝はたいしたものではなかったのですが、乳児や胎児にとっては無視できる状況ではなかったと今でも確信しています。」この藤田さんの確信を、3番目の子どもが生まれた9月29日の後に知りました。藤田さんが1ヶ月半食べなかった野菜を、5歳と2歳の子ども達に食べさせ、妊娠中の私が食べたことによって胎児にも食べさせたのです。子ども達を“被曝させた”のです。

 

福島原発事故に学ぶ
 2011年3月11日、その日私はこの法廷にいました。プルサーマル裁判が始まるのを待っている時、東京にいる臨月を迎えた娘からメールが入りました。「お母さん、今大きな地震があったけど、私もお腹の赤ちゃんも大丈夫だから」と。「ああそうなんだ」と普通に受け止めただけで、原発事故、メルトダウンがこれから始まろうとしているとは予想もしていませんでした。
 裁判が終わって次の集会が始まる頃、情報は次々に入ってきました。全電源喪失、燃料棒むき出し、メルトダウンの可能性・・・。集会の終わるのも待ちきれず会場を後にし、佐賀から自宅のある飯塚市へ帰りつくまでの3時間半はすべてが上の空。頭の中は娘とお腹の赤ちゃんを被曝させたくない、ということばかり。
 福島から東京までは約200km。その距離は何の安心材料にもならないことはチェルノブイリの教訓です。自宅に着くなり娘に電話。「避難したほうがいいよ!」。娘にとっては唐突で現実感の薄い話だったかもしれません。でも私も必死でした。福島がチェルノブイリ事故のようになるかも・・・と。
 結果的に、娘夫婦は原発の爆発を見て飯塚への避難を決めました。
 避難はしましたがそれで安心ではありません。福島から飯塚までの距離は約1000km、放射能がやって来ないとは限りません。私達は飯塚の放射能汚染の可能性を考え準備しました。まず食料です。大量の玄米を買い、畑の野菜は(まだ放射能が来る前だったので)全て収穫して冷凍、水はヨウ素131の毒性が落ちるまでを考えて汲み置きするなどです。娘たちを被曝から守るためです。避難時の被曝を防ぐための装備として雨合羽、ゴム手袋、防塵マスクなどを買い揃えました。早朝から夜遅くまでテレビにかじり付き、娘の夫はインターネットから情報を集める、原発事故を中心にすべてが回る異常な日々でした。

 

私達が守るべきもの
 原発事故は一瞬で食べ物を食べられないものに変えてしまいます。食べ物は人にとって最も大事なエネルギー、このエネルギーをダメにしてしまうのです。
 原発が動く限り放射能は生み出され続けるのです。その量は1日に広島原爆3〜4発分。出てくる放射能のゴミは10万年の安全管理が必要です。その技術は未だできていません。この事実は事故があろうとなかろうと、いずれは私達の、そして未来の子ども達の暮らす環境中に出てくるだろうということです。
 だからこそ、放射能を増やすこと、それ自体を止めなければなりません。

 

最後に
 私達は明日につながる今日であって欲しいのです。
 子や孫に野菜を届ける時この上ない幸せを感じます。
 だから放射能の心配など必要のない暮らしがしたいのです。
 裁判長、私達の今の暮らしを続けられるよう、どうか公正な判断をお願いします。

 

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2018年12月21日 意見陳述 山口明美さん
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平成23年(ワ)第812号, 平成24年(ワ)第23号, 平成27年(ワ)第374号
九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第28回口頭弁論公判(2018年12月21日)における意見陳述です。

陳 述 書

2018年12月21日
住所 鹿児島県いちき串木野市
氏名 高木 章次

1、はじめに
 私はイラスト、デザインなどの仕事をしてきた一市民です。1951年の東京生まれ東京育ちの67歳ですが、2014年から川内原発から約15キロの鹿児島県いちき串木野市に住んでいます。1988年に原発そして再処理工場の事故の影響と範囲、そして高レベル放射性廃棄物の処分問題の深刻さを知り、傍観者でいられる時代は終わったと思い、原発と再処理を終わらせる取り組みを一市民として続けています。「核のゴミキャンペーン」をつくり、2007年まで3回の全国知事アンケートの実施や申し入れ、経済産業省主催のシンポジウムへの参加などの取り組みをしてきました。
 今日は、現在進められている高レベル放射性廃棄物の地層処分計画の問題点を述べさせていただきます。

 

2、使用済み核燃料の毒性の広報がされていません。
 電力会社は高さ幅約1cm、約10グラムの核燃料のペレット1個で、一家庭の半年分の電気をまかなえると宣伝してきました。しかし、その毒性は住民に知らせてきませんでした。
 原発の核燃料は3~5年間燃やすと使用済みになりますが、放射能量は約1億倍に増え、ペレット1個で少なくとも約60兆ベクレルの放射性物質となり、一般人の約1億7000万人分の摂取限度量の猛毒物質です。
 1トンあたりだと、燃料取り出し時には放射能は100億ギガベクレルに増えます。ウラン鉱石レベル(1トンあたり約1兆ベクレル)まで放射能が減衰するのでも約10万年、100万年後でも約500ギガベクレルあります。100万kwの原発は1年間で約21トンの使用済み核燃料が発生しますが、日本では2013年10月末現在約17000トンもの使用済み核燃料が存在しています(ガラス固化体を除く)。
 原発はたった数年運転して、その後の人間が100万年以上廃棄物の心配をしなければならないという異常な発電施設です。これほど危険なものを原発は生み出すことを広報すべきです。  ※ギガは10億。

 

3、九州電力には発生者責任の自覚がありません。
 2018年6月28日の朝日新聞紙面において、池辺社長は最終処分場について「直接的な関わりは難しいかもしれない。いろんなところで機会があれば最終処分場についても話していくべきだろう」と発言しています。しかし、再処理工場へ使用済み核燃料を搬出して再処理した場合の高レベル放射性廃棄物ガラス固化体も九電の所有物であり、原子力発電環境整備機構(NUMO)は処分を請け負うという形です。
 池辺社長は続けて「国民みんなで場所を探し~みんなで力を合わせて処分場ができるように努力することが大事」と発言していますが、国民に責任を押しつける暴言です。資源エネルギー庁でさえこんなことは言いません。
 もともと使用済み核燃料は株式会社九州電力が作った産業廃棄物です。世代責任と言って国民に責任転嫁し、経済的利益は九電が得るということは許されません。
 玄海原発3号機でのプルサーマル運転後の使用済みMOX燃料は発熱量が高く、その扱いは2010年頃から検討するとなっていましたが、いまだに目処が立っていません。
 廃棄物発生者としての自覚が持てないのですから、原発を運転する資格はありません。

 

4、地層処分に関する科学的特性マップの公表は、原発再稼働のバックアップが目的のひとつと感じています。文献調査の公募を凍結しなければ、国民との冷静な議論は難しいと思います。
 資源エネルギー庁が2017年7月に発表した地層処分に関する「科学的特性マップ」は、長年言い続けてきた「日本には処分場の適地が広くある」というものから基本はさほど進んでいないと思います。 
処分場の文献調査への自治体からの応募を求める公募制度は2002年からスタートしました。唯一高知県東洋町長が議会や住民の同意を得ず独断で応募し、住民の猛反対の末の町長選挙で反対派が当選し応募は撤回されました。以来、応募はありません。
 マップ公開は原発再稼働に反対する理由の一つである高レベル放射性廃棄物処分問題が、解決に向かって進んでいると思わせるイメージ作りと考えています。 
 
5、現在の地層処分計画は課題が山積みで、埋めたことになっていません。処分場の場所を探せる段階ではありません。拒否、反対が国民の責務と考えています。
 エネルギー庁でも、平成 30 年度~平成 34 年度までの「地層処分研究開発に関する全体計画」が始まっています。NUMOが2018年11月に発表した、「包括的技術報告書レビュー:わが国における安全な地層処分の実現 -適切なサイトの選定に向けたセーフティケースの構築- 」の結語の中で「また,設計に基づいて処分場を建設し,操業・閉鎖するために必要な個別技術の実証が着実に進められていることから,既存あるいは今後の技術開発によって近い将来に実用化できる見通しを得ている。」と書いています。 しかし、現状を考えれば実用化できる見通しはまだ得られていないと書くべきです。現状での応募は、政治判断で場所を決めることになりかねず、それは原発の立地場所決定のようになるのではないかと危惧します。
 
 まだまだ多くの課題を克服しなければ埋めたことにならない例の一つとして、坑道の埋め戻し問題があります。
 NUMOの「包括的技術報告書レビュー版-4.5 地下施設の設計」に以下の記載があります。
「埋め戻し材は周辺岩盤と坑道周囲のEDZなどの透水性を考慮して,坑道内が卓越した地下水の流動経路にならない低透水性を確保できるものとする。」
 つまり、処分坑道が岩盤より透水性が高くなれば、廃棄物容器から漏れ出た放射能は岩盤でなく坑道を伝って急速に地上へ出現し、埋めたことになりません。処分区画と地上から地下300m以深へのアクセス坑道の接続部に止水プラグ(栓)を設置するとしていますが、機能するのか課題となっていて、実証も必要です。実験もなされていますが不十分で、このままでは坑道が確実に水みちになると思わざるを得ません。
 NUMOは、坑道が水みちになった場合、何が起きるのかを発表しようとしません。発表すれば、今までの処分計画の破綻を示すものだからと考えています。

 

6、原発の運転をやめ、使用済み核燃料を増やさないことが、世代責任です。
 原発の運転をやめれば、やっかいな使用済みMOX燃料を生み出さずに済み、100年かかるとしている処分事業を延長せずに済み、処分のための経費を減らすことができ、地下の処分場の面積・処分坑道の長さが少なくなるため、断層や地下水脈にぶつかるなどのさまざまな安全上のリスクがより少なくなるなど、不安と不信に満ちた状況にブレーキをかけることができます。

 

 今、この瞬間も死の灰が作られています。世代責任としても、原発を止める判決を1日も早くと心から期待します。

 

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2018年12月21日 意見陳述 高木章次さん
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佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号 
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件

第19回口頭弁論公判(2018年9月28日)における意見陳述です。

意 見 陳 述 書  

2018年9月28日

原告:荒 川 謙 一 

 

1. はじめに
 私は、玄海原発から直線距離にして約77kmに位置します福岡県宗像市に住む 荒川謙一と申します。
 私は、学業を修めてから機械専門商社の勤務で23年間、整体師として個人開業し23年間、「心身ともに自然体」をモットーに、人々に「今日を生きるための役に立ちたい」と思って従事してきました。

 

2. 私と原発
 私が5歳の頃、母から「放射能の雨が降るよ!頭を濡らしたら禿げになるから・・」と脅され、雨が降り出すと頭を庇って必死に走るという緊張体験を覚えています。後で知ったのですが、1954年3月はビキニ環礁水爆実験による被ばく事故で、静岡県焼津のマグロ漁船・第五福竜丸のことが日本中を騒がせていた頃でした。
 時が流れて、放射能の怖さのイメージは薄れ、‘70年大阪万博(日本万国博覧会)の頃には、九州電力に勤めていた叔父から「これからは原発の時代だ」と自慢話を聞かされ原発の平和利用は人類の進歩と理解したように思います。
 その後、東京で機械専門商社に就職。‘73年オイルショックを経験する中、自分の仕事も、マシン・テクノロジーの進歩で「便利快適」な世の中に貢献すると自負していました。
 ‘84年伊豆大島の三原山が活発化、静岡県で地震が頻発していた頃、私は東芝の担当者と一緒に浜岡原子力発電所に行く機会を得ました。初めてサイトバンカー建屋という所まで入ったのですが、砂丘の中に異様に建つ原発は、東海地震に襲われて耐えられるのか言葉にできない不安を感じました。そして、‘86年4月チェルノブリ原発の爆発事故が世界を震撼させたのです。日本の政府も原発従事者も「ロシアの原発は旧式(ボロ)だから、日本では事故など絶対起こらない」と発言しましたが、私が真に原発の科学と政策を疑い出したのはこの頃からです。それを裏付けるように90年代になると、「もんじゅ」の冷却材ナトリウム漏洩火災「JCO」の臨界事故など、あわやチェルノブリ寸前状態が発生し、これら事件を学べば学ぶほど不安はさらに深まり、原発の安全性技術は殆ど躍進してないと分かってきました。
 原発で働く大工さんを父に持った私の友人はこう言いました。「親父は、定期検査時の仕事を終えて帰って来ると、『あんなことをやっていたら、原発はいつか必ず事故を起こす』と言うのが、晩酌時の口癖でした」と。安全に関わる工事内容さえ予算の都合で簡単にランクダウンさせ、責任持てませんよと申し出ても「下請けはいくらでも居る」と脅され、指示通りやるしかなかったそうです。他の孫請け業者からもオフレコの話「配管の劣化隠し」「不良溶接」「報告書データ改ざん」等々、安全性無視の不正や真実の隠ぺい、例示に苦労しないくらい聞きました。
 裏付けるように、玄海原発でも配管類トラブルが続きます。今年3月、3号機の配管穴あき蒸気漏れ、5月には4号機の一次系冷却材循環ポンプ事故も再稼働の前後に起こったばかりです。神戸製鋼グループの組織ぐるみの製品や部材のデータ改ざんは、全国の原発の関わりを調査しなければならない不祥事でした。
 「耐震をはじめ安全余裕をしっかりと守って堅固な設計で作られている」という推進者側の言葉は、やっぱり安全神話だったと思います。

 

3. 原告適格ということについて
 私は、この行政訴訟の原告として4年10ヶ月になります。被告・国は、答弁書で最初に「原告適格」を問題にしながら、「もんじゅ」「六ケ所」「東海第二」「柏崎刈羽」原発訴訟の例を挙げ、北海道のような遠隔地に居住する者は、其々が生命・身体に重大な被害を受け得ることを自ら主張立証できなければ、原告資格がないと述べています。しかし、原発や核燃料施設からの距離と事故被害について、裁判所が判じたのは、いずれも‘11年の3.11フクシマの事故前でした。国が、電力会社が、「日本の原発は安全です。絶対にチェルノブイリのような事故は起こしません」と言い切っていた頃の判断です。全く想定外だった、超大な自然力の前に我々は無力であったと認めた時から、すべてが変わっているのです。
 福島原発が10m以上の津波に襲われると全電源喪失の指摘を受けた国会が‘09年度、それを無視した国と電力会社。その為に起きてしまった二年後の福島の反省から、想定外の原発過酷事故を全く無くそうと考えれば、PAZ(5km圏内)とかUPZ(30km圏内)で囲うような過小評価はできない筈です。しかし今でも、40km超えの飯舘村農家・酪農家の悲劇は完全無視されています。
 大地震が起き、その後大津波が襲う、風がどのように吹いているか、台風や豪雨や竜巻が重なるかもしれない、もっと歴史を紐解けば、大地震の連動、阿蘇山カルデラ破局的噴火、誰が明日起こらないと断言できるのでしょうか!
 福島は、国際原子力事故評価尺度で「レベル7」の史上最悪の原発事故となりました。しかし一方で、非常にラッキーだった面がありました。4号機での炉心シュラウドという支持構造物の交換工事が予定通り3月9日に終わっていたなら、11日は原子炉ウェルやDSピットに存在した水は既に抜かれゼロ、この水が補給されて冷やされることは全く無かったのです。使用済み燃料プールの水は完全に干上がり、燃料露出しメルトダウン。作業者は誰も現場に近付けない状態になったという推論があります。当時、原子力委員会の委員長だった近藤駿介氏が試算した最悪のシナリオもありました。このケースでは、少なくとも170km圏内の人々の全員避難、250km離れた東京も被曝地となり「東日本」が壊滅状態になるのでした。 今日、飛行機を使うなどすれば、私たちは4時間もすれば九州から北海道に居ます。瞬く間に起こる最悪のシナリオでは、私たちが日本のどこに住んでいようと「生命・身体に重大な被害を受け得る」ことは明らか、距離を理由に「被害を受けるかどうか」「訴える資格あるかどうか」など主張立証を要求するなど全く無意味だと思います。

 

4. 2011年福島第一原発事故による教訓は・・・
 今月(9月)6日未明の北海道胆振(いぶり)地方を最大震度7の巨大地震が襲いました。直ちにその影響で、北海道内全域が大停電(ブラックアウト)に陥りました。厚真町の震源地から約120kmに位置する泊原発はわずか震度2でしたが、停止中の3基は地震発生後より復旧まで約10時間も電源を失いました。この間、非常用発電機6台をフル稼働させて使用済み燃料プールの冷却を続けるしかない、正に綱渡り状態だったのです。
 福島第一原発事故による大きな教訓の1つは、大規模災害が起きても「絶対に電源を切らさないこと」だったはずです。しかし、今回の地震で、揺れが小さくても全電源喪失が起きる可能性があることを実証してしまいました。経済産業省や北海道電力の対応は、『お粗末』と言うしかありません。再稼働に至らせた玄海原発は本当に大丈夫でしょうか。どんな事態でも電源喪失しない対策が本当にできているのでしょうか。調べ直す必要がある筈です。3.11教訓を踏まえれば、極限的最悪なシナリオの試算を想定しつつ、全てを絶対にクリアできることが証明されない限り、原発は絶対動かしてはならないと思います。
 どうか、裁判官のみなさま、原発は国策、故に、人権さえ政治的な判断に委ねるなどと放棄しないで下さい。私たちが要求してきたすべての証拠を被告に開示させ、充分に調べ尽し、聡明な判決をして下さるように、切にお願い申し上げまして、私の意見陳述と致します。

 

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2018年9月28日 意見陳述 荒川健一さん
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平成23年(ワ)第812号, 平成24年(ワ)第23号, 平成27年(ワ)第374号
九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第27回口頭弁論公判(2018年9月28日)における意見陳述です。

陳述書

2018年9月28日
住所 唐津市
氏名 進藤輝幸

1 自己紹介

 私は1949年6月唐津市生まれの69才です。3人の子どもと4人の孫がいます。
 政治家を志して1968年九州大学法学部に入学しましたが、その直後大学構内に米軍戦闘機が墜落し、疾風怒涛の学生時代を過ごしました。中途退学や再入学など紆余曲折を経て、29才で福岡市公立中学校教諭(社会科)になりました。考えるところがあり、在職25年で早期退職し、現在は唐津市で不登校生のためのフリースクール「啓輝館」を細々と続け、14年目になりました。
 人生の岐路に立った時、その都度、損か得かよりも、自分自身が納得できるかどうかを判断の基準にしてきたというのが、私のささやかな誇りです。

 

2 私と原発
 大学に進学後、福岡市に住んだせいもあり、玄海原発の動きには無知・無関心でした。しかし、1986年のチェルノブイリ原発事故を知ってからは、社会科の授業の中で、原発の問題点を考え、「チェルノブイリは日本でも起こりうる」と伝え始めました。当時の板書内容は以下のようなものでした。
 早期退職後、唐津市へUターンを決める時「玄海原発」に近くなることが一瞬不安になりましたが、「五十歩百歩」だとも考え、転居しました。2004年5月、玄海原発からおよそ14kmの地点です。
 転居後はフリースクールの活動を中心に読書や散歩、スポーツを楽しむ悠々自適の生活を送る予定でした。ところが、プルサーマル計画が持ち上がり、黙認できなくなりました。
 本来は、首長や議会から「全住民の命とくらしに関わる大事なことだから、民意を問いたい。」と住民投票の提案があって当然なのに、住民からの要求署名が法定必要数を上回っても、「議会軽視につながる。」という本末転倒の発想で却下されました。佐賀県でも唐津市でも同じでした。
 最後の砦、司法の判断を!とMOX燃料差止訴訟の原告になりました。2回目の公判の日が2011年3月11日!
 私達の声を届かせきれなかったことがフクシマの悲劇を生んだと思えてなりません。ひとりひとりの反原発、脱原発の思いが、個々バラバラになったまま、力になりきれず、フクシマの教訓もおざなりにされていく。居ても立ってもおられぬ思いで「玄海原発反対からつ事務所」の立ち上げに加わりました。2016年8月のことです。
 同年10月以来、私はほぼ平日の毎朝、唐津市役所前で、玄海原発反対の「のぼり」を持って、1時間ほど辻立ちをしています。同じ場所、同じ時間帯なので、顔なじみの方も増えてきます。「安全神話の九電 運転資格なし」「命のことだから 廃炉あきらめません」「玄海・唐津ガン多発 経済優先を許すな」などと書いたのぼりを見て、車で通過する際、賛同のクラクションを鳴らされる方、心なしか好意的な眼差しで挨拶される方、時には「本当ですよね。」とか「頑張ってください。」「ご苦労様です。」などの声かけに勇気づけられています。
 また「玄海原発反対からつ事務所」の重点活動として、玄海町や唐津市全域へのチラシ配りを、繰り返し計画的に進めています。1年目の配布枚数6万枚を、2年目は上回りそうな勢いです。
今年7月に開設された九電・玄海原子力総合事務所が9月20日から原発5キロ圏に戸別訪問して説明活動をするということを前日に知り、私たちも住民に「原発の危険性」を知らせるために、ただちにこの日から5キロ圏での戸別訪問・チラシ配布を開始しました。「チラシに原発反対の理由を書いています。ちょうど説明に来られる九電の方に是非聞いてください」と言って渡しています。

 

3 私が原発に反対する主な理由
①「安い、安全、クリーンすべて嘘」
元首相小泉純一郎氏の言でもありますが、全くその通りです。ごまかしの計算は、賠償や復興の費用無視。「五重の安全」も「想定外」の一言で吹っ飛び、汚染水垂れ流しも止められず、「除染」も有名無実。
②最低限、「フクシマ」の後始末を済ませてからの再稼働ではないのか?
「フクシマ」の原因究明、実は想定されていた津波への無策を含め、事故の原因を明らかにし、責任をとるべき人が責任をとり、避難者が事故前の安全基準で故郷に戻り安心して生活できる条件を整えて、初めて再稼働を口にできるのではないでしょうか?「原子力緊急事態宣言」発令中のままの再稼働はありえません。
③命がけの電気はいらない。
たかが水を沸騰させるために、未だ人間の制御不能なウランやプルトニウムを使う必要がどこにありますか?放射線を即座に無効化する中和剤あるいは解毒剤を発明、実用化してから出直して欲しい。そもそも「避難計画」が必要な危険な発電はお断りです。安全ならば高圧送電の不要な大消費地に作ってください。
④地元玄海町長と佐賀県知事が同意したから問題無い?
玄海原発再稼働に同意するということは、玄海町や佐賀県はおろか、西日本一帯の人々に原発事故との無理心中を強制することに外なりません。場合によっては、日本中あるいは世界中に被害を与えます。しかも、それは、その時に生きている人々だけでなく、何世代にもわたって続きます。
玄海町長と山口祥義・佐賀県知事に、そんな権限がありえますか?

 

4 終わりに
 何度も空しい努力と思いつつも、原発反対を諦めきれないのは、何と言っても「次世代に核のツケを回すわけにはいかない。」という一念です。私自身は年齢から言って、放射能がどうあれ、さほど余命に影響はありません。けれども、今の子ども達、今から生まれてくるはずの子ども達にとんでもない影響を与え続けることは何としても阻止しなくてはと思うのです。
 もうひとつ、原発反対にこだわる理由があります。私は学生時代、父母に向って、「何故、戦争に反対しなかったのか?」「本気でみんなが反対していたら戦争は無かったはず。」と追及したことがあります。立場が逆転し、「何故フクシマの後も、原発を容認したのか?」「本気で反対したのか?」と子や孫に追及されたくないからです。
 裁判長、原発は憲法25条の「生存権」を根底から覆すものです。再稼働を認めることは、広瀬隆氏言う所の「未必の故意殺人罪」を犯すことにもなります。
 そのことをしっかり念頭に置いて公正な判決を下されることを、切にお願いして、私の陳述を終わります。

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2018年9月28日 意見陳述 進藤輝幸さん
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佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号 
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件

第18回口頭弁論公判(2018年6月1日)における意見陳述です。

陳 述 書
2018年6月1日
佐賀地方裁判所 御中
住所 北九州市
氏名 橋本加奈子

 

 本日は意見陳述の機会をくださってありがとうございます。
 私は北九州市に住む37歳の主婦です。夫と2歳になる息子の3人で暮らしています。特別な経歴や経験も無く、ごくごく普通の主婦である私ですが、だからこそ3.11東京電力福島第一原子力発電所での事故により放射能汚染された日本での私たちの暮らしや育児について、皆さんに知ってほしいと思い今日この場に立っています。
 
 事故当時、私は銀行で働いていました。経済成長や便利さなどが豊かさの物差しとなっていて、それを疑いもしませんでしたし、自分が使う電力がどのように作られているのか、そして原発のことなど無関心でいました。しかし、あの日、事故のニュースを知ったとき、すぐに幼い頃の記憶が鮮明に思い出されました。それは母と一緒に見たチェルノブイリの子どもたちの写真展のこと、そして、「スノーマン」など絵本作家として著名なレイモンド・ブリッグズが核戦争の恐怖を描いた「風が吹くとき」というアニメーションの「こわい」記憶でした。写真展もアニメも「核の恐怖」というものが描かれ、私の心にしっかりと刻まれていたからです。
 事故から毎日ハラハラした気持ちが止まらず、しばらくはtwitterやネットでひたすらに情報を集めました。自分のため、そして関東に住む大切な友人たちのために必死でした。チェルノブイリ原発事故についても改めて勉強し、それらの情報を元に友人たちに一時的にでも避難してほしいことや、水や食べ物に気を付けてほしいことを何度も伝えました。しかし残念ながら、ほとんどの友人たちへ想いは届きませんでした。
 情報を迅速に開示しないこの国に対し、疑問と不信感が大きくなっていく中、福岡市内で原発に反対するデモがはじまり、私もひとりで参加するようになりました。そこで仲間が増えひとりひとりと話すうちに、「みんな同じ想い(疑問)を持っている」と、ほっとして救われたのを覚えています。特に避難者や小さな子どもを連れて懸命に声をあげる母親たちの言葉は切実で、まだ独身だった私も「子どもたちを守りたい」という想いに突き動かされていました。それは私の中で希望にもなっていました。
 私が街で声をあげてきたのは、怒りを発散したかったからでも、デモをすれば原発が止まるなどと考えていたからでもありません。動かずにはいられなかったという衝動と、何より原発に対して「NO」と言いたくても言えない人たちに「あなたにも仲間がいる」ということを伝えたかったのです。そして祈りや願いだけでは何も変わらないこと、小さくても行動することから社会を変えられることを自らの行動で示したかったのです。

 

 私は2014年に結婚を決めたときに、夫にお願いをしました。それは、3.11以降、日本で暮らすには原発問題、そして放射能汚染の問題に向き合わなければならないこと、もし子どもを授かれば特に日本で安心して暮らすことが困難になるかもしれないこと、もしそのように判断したときにいつでも逃げられるよう準備をしておきたいこと。同じように危機感を抱いていた夫は共感しすぐに了承してくれました。
 こうした考えに対し、世間では「大袈裟だ」「考えすぎだ」という人がいます。しかし、それは、3.11原発事故前迄には、水・米・野菜・魚など食品の(セシウムなど)放射能含有量などごく微量だったものが、2012年の事故後には、厚生労働省規制基準値を何千倍も何万倍も跳ね上げねばどうにもならなかったことで分かりますし、環境省指定の特定廃棄物という放射能が混じったゴミなどは、一般的に棄て燃やしてもよい基準値は、100bq/kg~8000bq/kgというように80倍にしないと成り立たない世界に変わってしまっていることからもよく分かるのです。福島の事故は、それまでの暮らし方や人生設計を根底から変えるほどに私たちに大きな影響を与えたのです。
 日本全国にある原発どこででも事故が起きれば、この小さな島国に安全な場所などなくなります。現在暮らしている北九州市は玄海原発からおよそ100kmの場所にあり、30kmよりはるかに圏外ですが、それでももし玄海原発で福島の事故のような過酷事故が起こった場合は、偏西風に乗って我が家にも高い値で放射性物質は降り注ぎます。チェルノブイリ事故では、爆心地から西側には300kmも飛散し、その地域は立ち入り禁止区域となっていました。更には1,200km離れたドイツにまで飛散していたそうです。放射能には県境も国境もありません。
 玄海原発3号機再稼働後は安定ヨウ素剤をいつも持ち歩いています。近所の公園に行くときも、買い物に行くときも息子のおむつと一緒に持ち歩く、日頃からこんな用心をしている母親が私だけでなく日本中にたくさんいることをご存知でしょうか。どうして電気のために国民がこのような不安やリスクを負わなければならないのでしょうか。

 

 育児のなかで私が一番気を遣うのは「食事」です。子どもたちは大人の何倍も放射能の影響を受けやすく、3.11以降の育児では「被ばく回避」の意識と知識が不可欠です。微量でも内部被ばくする可能性はあり、汚染が疑わしい食材は避けるしかありません。これは決して「風評被害」などではなく、実際に内部被ばくの恐れがあるものを体内に入れないという当然の危険回避策です。海洋の汚染は現在進行形で続いており、海産物については特に深刻に感じています。もしも玄海原発で過酷事故がおきれば、当然九州の食品が「汚染」されます。
 3月23日に玄海原発3号機が再稼働し、そしてそのたった1週間後に蒸気漏れ事故、その後玄海4号機一次冷却系ポンプ事故が起きました。九電は原子炉を止めず、私たち市民の不安にもきちんと向き合った説明をしないまま、今日に至ります。市民が不安な毎日を送っていることを、九電は理解しているのでしょうか。
 完璧な人間などおらず、ヒューマンエラーは必ず発生しています。原発も、不具合や故障、そして老朽化や劣化も起こっています。「絶対に事故が起きない」とは、国も電力会社も言えず、もし過酷事故が起きても誰も責任をとれないことは、福島の事故で実証済です。

 

 息子がもう少し成長したら、わたしはこの理不尽な事実を少しずつ教えていかなければいけません。その頃、行き場のない核のゴミで全国各地が埋まっていないでしょうか。プルトニウムの危険な黄色い看板が乱立し「立ち入り禁止区域」が拡がってないでしょうか。第二のフクシマ大事故が起きてないでしょうか。その時、「大人はこんなに危険な原発をなぜ止めなかったのか」「無責任に僕たちに核のゴミをなぜ押し付けたのか」と息子が怒ってないでしょうか。そんな未来など想像したくありません。私は息子に胸を張って「お母さんはあなたのためにがんばって反対したよ、みんなで原発を止めることができたよ」と言いたい。
 被ばく労働や環境問題、ウラン採掘の問題や核のゴミ問題に差別問題など、原発に関わるあらゆる問題を後世に残してはならないと思います。すべてが「負の遺産」です。
 「負の遺産」は一日も早く無くしたいのです。すべての原発を廃炉にすること、子どもたちの健康を守ること、これは大人たちの責任です。
 今日この場にいらっしゃる裁判長、裁判官、裁判所のみなさんをはじめ、すべての人たちが例外なく未来への責任に真摯に向き合うことで、どうか、玄海原発を勇気を持って止めてください。子どもたちに誇れる判決をしてくださるよう強く願っています。
 ありがとうございました。

 

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2018年6月1日 意見陳述 橋本加奈子さん
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平成23年(ワ)第812号, 平成24年(ワ)第23号, 平成27年(ワ)第374号
九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第26回口頭弁論公判(2018年6月1日)における意見陳述です。
陳 述 書 
2018 年 6 月 1 日 
佐賀地方裁判所 御中 
住所 福岡市東区
氏名 松村 知暁 
 
(1)  私たちの願いもむなしく、玄海原発3号機は再稼動してしまいました。しかしながら、稼動してすぐ、 配管に蒸気漏れを起こすという事故を起こしてしまいました。配管だらけの原発、しかも7年以上も動 かしていなくて、きちんと点検もできていない、事故が起こって当然といえます。さらに5月2日には、 4号機の原子炉容器内の放射性物質を含む1次冷却水を循環させるポンプ2台で、異常が見つかり ました。もしも地震や火山、人為的ミスによる過酷事故が起こったら、誰が責任を取るのでしょうか。次 から次へと事故を起こす九州電力は、原発を即刻止めるべきです。このままでは、必ずチェルノブイ リや福島第一原発のような過酷事故を起こします。 
 
(2)  私の住んでいる人口 157 万人の福岡市は、玄海原発から 40km~60kmの距離にあります。 玄海原発で過酷事故が起きれば、偏西風の影響で放射能は必ず福岡市を襲います。季節による風 向きの違いはあるものの、いつの場合も風下に位置する福岡市に飛散してくるのは間違いありませ ん。とりわけ、季節風の吹く冬の時期にはその危険がいっそう増します。 玄海原発で福島第一原発のような過酷事故が起きれば、福岡市は飛散した放射性物質による放 射能汚染は免れないでしょう。また、すごいスピードで飛来する放射性物質から避難することも不可 能です。それどころか、偏西風は日本列島を全滅させるかもしれません。 
 
(3) 福島原発の事故は終わっていません。 2011 年 3 月 11 日に発生した地震と津波で、福島第一原発1,2,3号機がメルトダウンを起こし爆 発しました。この時、放出された放射性物質の 80%は太平洋へ飛散しましたが、20%は本州にまき 散らされました。そして、その放射能は、北は岩手県南部から南は静岡県北部まで、東北・関東一円 を汚染しています。しかしながら、政府は被曝許容量を年間 1ミリシーベルトから20ミリシーベルトへ と20倍に引き上げ、避難ではなく住民を被曝させるという暴挙を行っています。年間20ミリシーベル トいうのは、1 年間で胸部X線を約 1000 回、毎日 3 回浴びる量に相当するということです。とんでも ないことです。 また、低線量でも長い期間の間、体内に取り組まれたり、吸い込まれたりして、被曝する内部被曝 によるリスクを見逃してはなりません。とりわけ、猛毒のセシウムはカリウムと良く似ており、土や水に入 りこんで、野菜、果物、肉、牛乳、米などを汚染します。そして、セシウム 137 に汚染された食物の摂 取は、動植物の中で生体濃縮する傾向にあるといわれています。汚染地域に住む日本の子供たち は、同じようにセシウム137で汚染された大地に住むベラルーシやウクライナなどの子供たちのように、 汚染された食物を摂取することによって危険にさらされています。32 年前に起きたチェルノブイリ原 発事故で、現地では今もなお放射能による汚染が続いており、ガン、白血病、心臓疾患などさまざま な病気に苦しんでいます。ベラルーシ、ウクライナ、ロシア、そしてヨーロッパの多くを汚染した、半減 期が 30 年のセシウム 137 が生態系から無くなるまで、180 年から 320 年かかるだろうといわれてい ます。チェルノブイリの悲劇を、フクシマでも繰り返そうとしています。なんと愚かしいことでしょう。 
 
(4) 
 2年前の熊本の直下型大地震の恐ろしさを忘れてはなりません。 私の生まれ故郷は熊本県阿蘇市です。今もなお避難生活を強いられている被災者の方々、小学 生の頃よく遊んだ阿蘇神社の倒壊、熊本城の崩落を目の当たりにして心を痛めています。  熊本大地震で交通がいかに遮断されたか、少しお話したいと思います。 4月14日の第1回目の震度7の地震の後、山鹿にいる妹が、すぐに熊本市内にいる娘の所へ車 で行こうとして5時間もかかったとのことです。通常40分位で行けるところが、いたる所通行止めなど で通れず、また渋滞にあって、とても時間がかかったのでした。 また、阿蘇へ向かう国道 57 号線と豊肥線は、立野の山体崩壊で埋まり、南阿蘇へ向かう阿蘇大 橋も南阿蘇鉄道の鉄橋も谷底に落ちてしまいました。そして、益城町と南阿蘇を結ぶ俵山トンネルも 一時不通になりました。 熊本市方面からは、大津町から外輪山を越えるミルクロードしかなくなり、阿蘇市へはとても時間が かかるルートとなっています。昨年秋、阿蘇長陽大橋が架かり、南阿蘇へは何とか従来どおり行ける ようになりました。しかしながら、立野では、無人の建設機械が土砂を取り除く工事中で、57 号線・豊 肥線の開通はまだまだ先のようです。 また、断層が走った高速九州道の嘉島ジャンクション付近は、最近まで復旧工事をしており、渋滞 を引き起こしていました。このように大きな地震は交通を寸断し、すごい交通渋滞と地域の孤立化を 招きます。原発との複合災害が起きれば、避難することなど不可能だと思います。 日本中どこでも地震は起こり得ます。中央構造線は九州を横断し、各地を走る断層は網の目のよ うに覆いつくしています。福岡でも警固断層を中心に福岡西方沖地震が、13 年前に起きました。 佐賀県には、唐津城山南断層、竹木場断層、伊万里楠久断層があります。玄海町南部には、「にあ んちゃん」の映画で有名な大鶴炭鉱があり、地下は石炭層で埋もれています。佐里温泉をはじめ、 北松浦各地にも温泉が湧き出ています。過去にマグニチュード 6 から 7 の巨大地震が起きた形跡が、 断層に残っています。そして、福岡県沖から佐賀県にならぶ3つの活断層は、つながっている可能 性が高いといわれています。 また、世界的に見ても日本、チリ、台湾、韓国、中東、フランスなどで相次いで地震が起こり、地震 の激動期に入っています。とりわけ、日本では、活断層による直下型地震は誰にも予想できず、日本 列島は断層の固まりで、どこでも起こり得ることを示しています。阪神大震災、熊本大地震、2キロ四 方の山が陥没してなくなり、人類史上最大の揺れを記録した岩手・宮城内陸地震など、日本中どこ でも直下型地震の脅威が存在します。活断層が分からない所でも起こりえます。大地震の可能性を 無視し、直下型を想定しない玄海原発は、再稼動してはなりません。 
 
(5) 私は、生活協同組合で、安心安全な食べ物を組合員のみなさんに届ける仕事をしてきました。そ して、退職後、15 人の仲間と一緒に、無農薬・有機肥料で野菜を作っています。 また、ラムサール条約の登録をめざして、「和白干潟」を守る活動に参加してきました。「和白干潟」 は、博多湾の奥に残された干潟で、全国では2ヶ所だけといわれる貴重な自然海岸が残っています。 砂浜、アシ原、クロマツ林や雑木林、湿地などがあり、多様な生き物を育む重要な干潟です。東アジ アの渡り鳥の渡りのルートにあり、ミヤコドリや貴重な絶滅危惧種のクロツラヘラサギなども飛来してい ます。干潟の生き物、そして自然を守る立場からは、原発事故による放射能汚染は、生き物、自然に とって最悪の環境汚染、環境破壊です。 放射能は無味無臭で目に見えません。そして、空気、水、大地を汚染します。だから、恐ろしいの です。放射能と食べ物・いのちは相容れません。放射能と相容れない全てのいのちと地球の未来が かかっています。今からでも遅くありません。事故が起こってからでは誰も責任が取れない全ての原 発を廃炉にすべきです。そして、今まで生み出した放射能汚染物質を処理するために全力を尽くす べきです。そのためにも、玄海原発の再稼動を止める判決が下されんことを切に望みます。 
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2018年6月1日 意見陳述 松村知暁さん
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佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号 
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件

第17回口頭弁論公判(2018年3月23日)における意見陳述です。

陳 述 書

2018年3月23日

佐賀地方裁判所 御中

住所 佐賀県唐津市

氏名 北川浩一

 

(1)

 この場を与えていただきました皆様に感謝申し上げます。

 玄海原発から車で30分、直線距離約13kmの唐津市(人口12万)に居住する71歳の北川浩一と申します。福岡市から移住し36年、薬剤師としての業務の傍ら、学校環境の管理、薬物乱用防止、看護学校講師などの職責に携わってきました。

 一刻も早く原発のない国になることを願い意見陳述をいたします。

 国民多数の意に反し、根拠なき自称"世界一レベル"の規制基準のもとに玄海原発再稼働は秒読み態勢に入りました。3月某日の再稼働直後に原子力過酷事故が発生したと想定したとき、私達夫婦と、同じくUPZ30km圏内に暮らす子どもたち2家族8人にどういう事態が待ち受けているのか、私の不安と危惧と怒りをお話ししたいと思います。わが身のこととしてお聞きくだされば幸いです。

 

(2)

 私達3家族、それぞれ玄海原発から12km、15km、17kmに居住しています。いずれも、原発から東南の方角に位置しています。唐津では4月から6月の南寄りの風を除き、年間平均時速8km弱の風が原発方向から吹いています。放射能が漏れれば私たち3家族は2時間以内に被曝を余儀なくされます。

 本来なら原子炉の冷却不能情報と同時にできるだけ早く遠くに避難すべきでしょう。しかしながら島国日本には被曝を避けられる場所などどこにもないのです。

 

(3)

 佐賀県策定の避難計画に従ってみましょう。

 警戒事態発生の発令をPAZ(5km圏)と同時に入手。私達夫婦は薬局の職務上、緊急調剤応需体制をとり屋内退避準備。

 子ども家族は次の施設敷地緊急事態(放射能放出の可能性)発令前に孫4人(各家族2名)を保育園、幼稚園、小学校から引き取る。これには大混雑が予想され数時間要すると思われます。道路では勤務先から帰宅を急ぐ親の車、子を引き取る車だけでも渋滞。さらに、PAZ5km圏8000人の一部が避難開始。それに自主避難者の車が加わる混雑状態。この時点でヨウ素剤入手のため備蓄センターに走る。私の家族たちは首尾よく全員が揃いヨウ素剤の準備ができたでしょうか。

 次は施設敷地緊急事態発令に進展。屋内退避の準備。この時点でヨウ素剤入手に動き出す家庭が多いと思われます。事前に入手した家庭は数パーセントにすぎません。ヨウ素剤は水・食糧3日分と同様に用意する必要があるが、備蓄センターに医師、薬剤師は派遣されているのでしょうか。未だにヨウ素剤の学習も事前配布も確立していません。ヨウ素剤入手が不首尾で甲状腺がんを発症すれば、その責任は自己責任を問われることになるのでしょう。

 次の段階、燃料棒損傷などの全面緊急事態発令。

 新規制基準にあるフィルター付きベントも事故対策指令室である耐震重要棟も数年後に完成の予定です。施設完成時までは事故は起きないという想定なのでしょう。かくも安全をないがしろにした人権無視の基準があるのでしょうか。これでは事故の進展は福島より早い可能性が高く、屋内退避開始どころか直ちに避難を始めねばなりません。

 計画では屋内退避の安全性を強調していますが、たかだか10%の被曝量の軽減にしか過ぎません。わずか2~3日分の水食糧をかかえ、当てもない救援を、放射能の低下を、待てというのでしょうか。

 

(4)

 我々3家族は毎時20マイクロシーベルト超への情報を受けた時点でそれぞれ決められた避難所に向かうことにします。予定避難場所が風下であっても指示は変わらないのでしょうか。県の試算によると30Km圏外への避難時間は14時間~19時間を要しています。その間の4人の孫の被曝量は一体どれくらいになるのでしょうか。

 これが、もし夜なら、大雨なら、台風の時期なら、雪なら、余震下なら・・・またこれらの複合事態だったらどうなるのでしょうか。

 たどり着いた予定避難所は基本的に原発風下に位置し再避難の不安もぬぐえないでしょう。

 避難所生活以後の私たち家族は福島の人々が置かれ続けている過酷な状況を再現することになるのでしょう。当然年間線量20ミリシーベルトの唐津に住めといわれるのでしょう。労働基準法に定められた放射線管理区域の約4倍の汚染地域に住まわされるのです。この値を公表した時の内閣参与の東大教授が「これで私の学者生命は終わった」と記者会見の席で落涙したことは忘れ去られたのでしょうか。

 

(5)

 福島震災の反省を踏まえて避難計画が策定されました。本来、被曝からの避難は被曝ゼロを目指すべきでしょう。5~30Km圏の人々は放射能が毎時20マイクロシーベルト以上になるまで屋内退避を指示されました。だれも容認していない被曝を強要されるということは補償体制が整っているのでしょうか、被曝証明、被曝線量の測定、公的治療、将来にわたる健診制度が用意されているのでしょうか。

 一企業の、代替技術がいくらでもあるたかが発電のために、私の子や孫は放射能に起因するガンをはじめとする多くの疾患に怯えながら生きていかねばならないのです。その影響は世代を超えて伝わることは、広島、長崎、チェリノブイリが証明しているのではないでしょうか。これを人権侵害と言わず何というのでしょう。いまだ正しい放射能学習も避難計画学習もやらず、納得のいく原発の必要性すらも説明できず、責任の所在も明確にせず、被曝前提の避難が強要されている。この国に私達の生命、財産、国土を守る意思があるのでしょうか。そのために設置された原子力規制庁ではなかったのですか。

 毎日、街角で畳大の原発反対の幟2枚を掲げて立っています。車列が途絶えたほんの一瞬、ふっと真空状態のような静寂が訪れることがあります。人っ子一人いない唐津の町に、世界文化遺産に登録されたばかりの曳山14台が、潮風に吹かれ打ち捨てられている幻影が脳裏に浮かびます。

原発事故の取り返しのつかない影響は、福島を起点にまさに現在進行中ではありませんか。私だけは、私の家族だけは、私の地域だけは、災厄から免れるとでも皆さんはお思いでしょうか。単なる科学論争や経済論争に矮小化することなく、社会科学、倫理学、医学、哲学、環境学、宗教学などを踏まえた観点で原発の是非は論議されなければ将来に取り返しのつかない禍根を残すことになるでしょう。

 直近(2018年2月共同通信社他)の世論調査によれば原発事故懸念83%、今すぐ稼働ゼロ・将来ゼロ合わせて75%、避難計画不可65%の民意が示されています。

 主権在民、三権分立…小学校生でも諳んじるこの言葉が死語になっていないでしょうか。

 人権の最後の砦である憲法、その解釈を任された司法の責任は重い。

 ポスティングで出会った多くの人から、怒りをこめた諦めの言葉を聞いた。「何回反対の署名ばしたね、なーも変わらん。どげんしたらよかと。金のまわっとっとやろう。国策やけん、どうしよんなか。国民がばかたいね!原発が国難たい!」

 

 明るい未来を信じ、国民がともに前に歩き出すきっかけになる判決を期待して陳述を終えます。有り難うございました。

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2018年3月23日 意見陳述 北川浩一さん
行政訴訟第17回口頭弁論
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平成23年(ワ)第812号, 平成24年(ワ)第23号, 平成27年(ワ)第374号
九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第25回口頭弁論公判(2018年3月23日)における意見陳述です。

陳 述 書

2018年3月23日

佐賀地方裁判所 御中

住所 福岡市西区

氏名 えとう真実

 

 福岡市西区在住の江藤真実です。

中学校1年生の息子と小学校5年生の娘がいます。息子が1歳になったころ、今の家を建てて引っ越しました。その頃は福岡市内では玄海原発に近い場所であるということは全く考えませんでした。

 

 東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故が起きたのは、息子が小学校に上がる直前です。長崎出身の私は周りの友人たちよりも「放射能」や「被ばく」ということに敏感だったと思います。

原発事故に関するテレビのニュースに違和感を覚えてTwitterを始め、パソコンにしがみつくように、子どもがいない間、子どもが寝てしまってから、情報を集めました。その頃のことを思い出すと、今でも胸が苦しくなります。

 

 私の家族は人間だけでなく、9匹の猫も一緒に暮らしています。福島で避難した人たちは、すぐに自宅に帰れると思って、犬や猫を置いたまま避難しました。その後におきた酷い出来事をここで話すことはできませんが、人間が作った原発の事故で何の罪もない生き物が数限りなく犠牲になったという事です。2016年1月に汚染地帯で発見された狐の死骸の大腿筋を測定したところ18000Bq/Kgであったという記事をみたときは人間の罪深さに体が震えました。

 

 2011年の5月、このまま情報を集めて自分だけが対策をするだけではどうにもならないと考えて、生まれて初めてデモに参加しました。

当時6歳と4歳だった子どもたちを連れていくにあたり、上の子にだけでも「なぜデモに参加するのか」を伝えたくて、原発のことと福島で起きていることを話しました。息子は「まだ6年しか生きとらんとに、そんなの(原発)がたくさんあって、どうやって生きていったらいいとよ」と私にききました。あの時の衝撃は忘れられません。

まさかそんな言葉が返ってくるとは思ってもいなかった自分の傲慢さ。ただ被害者であるだけの大人はいないのです。初めてこれまで何もしてこなかった自分の無責任さを思い知り、心底後悔しました。そこが私の活動の原点です。そして息子のその言葉は、すべての生き物たちの言葉でもあるのだと感じています。

 

 疑問をもって情報を集めれば集めるほど、信じられないことばかりが起きていることがわかってきました。事故直後、内部被ばくを避けるために、国策として食品の流通が変わるだろうと考え、それも仕方がないと覚悟しました。しかし流通はほとんど変わりませんでした。その代わり、飲食物の放射能安全基準値がありえないくらいに緩く定められました。

 

 九電交渉にもできる範囲で参加してきました。申入れに参加して、具体的な返事を聞いたことも、誠意を感じたことも一度もありません。福島の原発事故でも国や電力会社は十分な補償を行っていません。チェルノブイリでは義務的に移住しなくてはならない線量のゾーンであっても福島では人が住んでいます。更に避難指示の解除にともない、この3月で家賃や慰謝料も打ち切られることになっています。

 Twitterを通じて、福岡に自主避難してきた皆さんから連絡をいただくことも多く、そこからお付き合いが始まった友人たちが多数います。みなそれぞれ違う時期に福岡に移住してきましたが、皆さんその費用は自身で負担しています。経済的に逃げたくても逃げられない人たちがどのくらいいるのか予想もつきません。

 移住の理由は、既に健康被害がみられた人、将来的な健康不安を考えた人など様々ですが、健康被害を感じていた人においてもばらつきがあり、家族間でも違います。そこに因果関係をみつけることは難しいのです。因果関係がはっきりしなければ企業が責任を問われることはありません。

 福島の原発事故は、電力会社に、事故が起きても補償はそこそこで打ち切ることができるという不条理な前例を作ってしまいました。だから各電力会社は平気で再稼働をしようとしています。責任を取る必要がないのだから目先の利益の為に原発を動かすのです。

 

 そもそも電力不足はありえません。脱原発を決めて自然エネルギーへと舵をとっている国はもう日本のだいぶ先をいっています。日本が脱原発を目指さなかったからいまだに原発をとめたら電力が足りないと言わなければならないのです。

 また電気やエネルギーは命や環境と天秤にかけられるものではありません。重大事故が起きればいかに多くの命が犠牲になるのか、健康を失うのか、私たちは思い知ったはずです。それは立地自治体だけでなく、県を超え、国を超え、地球規模の環境汚染となってそこに生きるすべての命を脅かしています。そのことがほとんど知らされていない事実に憤りを覚えます。

 原発は安全だという言葉はTVや新聞やあらゆる媒体に流されていて、私もどこかでそれを信じてきました。浅はかでした。事故はおきる、そして事故がおきても、人間にはなんの手立てもないのです。私が住んでいる福岡市は西風の時は玄海原発の風下になります。福島原発事故のときの飯館村と同じ位置です。目に見えず臭いもしない放射性物質が気づかないうちに襲ってくるかもしれません。汚染を完全に除去することは不可能に近く、私たちはただ黙って被ばくするだけです。そして他の生き物も被ばくさせ、未来の子どもたちも被ばくさせます

 

 避難計画もあってないようなものです。30kmを超える地域は自宅待機。これ一つとってもどれだけいい加減かがわかります。真夏だったらどうするのですか?エアコンも使えない、風を通すこともできない環境で家に閉じこもったら、熱中症になるでしょう。家族で自宅待機できるまでにどれだけ被ばくすることか。考えただけで恐ろしく、身震いがします。事故がおきる時間帯も季節も、なにも想定されていないかのような避難訓練を視察するたびにうんざりします。動物を連れた避難訓練も腹立たしいほどにお粗末でした。とても家族を守ることなどできないと絶望的な気持ちです。また電力会社の事故を想定した避難訓練を、なぜ自治体が税金を使ってやるのだろうと、別の疑問も湧いてきます。自然災害は避けられないから避難計画が必要です。でも原発は人間が作ったもの、人間がやめることをきめれば原子力災害はおきません。避難計画を立てることもなくなります。

 もしも玄海原発で事故がおきたら、私たちの暮らしは一変するでしょう。

命を失うことがなくても、家族の健康を守るために、福岡に移住してきた友人たちのようにこの地を離れることを余儀なくされるかもしれません。住宅ローンを払い続けながら、仕事もやめざるを得ない、親しい友人たちとも離れてしまうという状況を家族全員で受け入れることができるでしょうか。今の暮らしは根こそぎなくなってしまうのです。

 

 それだけではありません。いったん事故をおこしてしまうと、廃炉にすることもままならないのは福島の現状をみると明らかです。誰がその作業をするのでしょうか。燃料を掘り起こすところから始まる被ばくの問題は、永遠につきまといます。それは差別の問題でもあり、人権の問題でもあります。安全な再生可能なエネルギーが他にもあることを私たちは知っています。電気をつくるために誰かが犠牲になるべきではありません。

 

 再稼働はやめてください、再稼働している原発は止めてください、そして原発を廃炉にすると決めてください。もう選択肢はありません。

 

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2018年3月23日 意見陳述 えとう真実さん
全基差止第25回口頭弁論
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佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号 
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件

第16回口頭弁論公判(2017年12月1日)における意見陳述です。

陳 述 書

2017年12月1日

佐賀地方裁判所御中

住所 福岡県糸島市

氏名 亀山ののこ

 

(1)

 私は写真家をしています。東京で生まれ育ち、33歳まで東京を離れたことがありませんでした。

 写真とは18歳で出会い、自分が生きている意味を実感しました。大学卒業後、プロカメラマンとしてキャリアをスタートさせ、20代は雑誌や広告などの仕事に無我夢中で邁進していました。31歳で結婚をし、33歳、双子の息子を授かりました。

 私の実家は東京の東大和市という自然豊かな場所にあり、家の周りは雑木林に囲まれていました。

双子が生後4ヶ月の時、これからは私の父や兄家族の側で、自然の中で息子たちを育てていこうと、故郷の家に移り住むことにしました。母はすでに亡くなっており、一人暮らしだった父が孫たちの世話を手伝ってくれました。そしてその2ヶ月後に3.11が起こりました。

 

(2)

 私はそれまで原発というものに無関心に生きてきました。原発の原料となるウランが採掘される時も、運搬する時も、発電所で作業がなされる時も、どこかの土地やそこで働く誰かが被曝しているということを知りませんでした。捨て場のない核のゴミが増え続けていることも知りませんでした。

 双子たちにおっぱいを飲ませながら、ノートパソコンを膝に乗せ、懸命に調べました。チェルノブイル事故の時、1600キロ離れたドイツでも放射能汚染が問題となったと知り、約200キロの東京は危ないんじゃないかと考えるようになりました。ガイガーカウンターを買って、庭の雨どいの下を計測しました。0.4マイクロシーベルトを検知しました。東京の水道水からも放射性物質が検出されました。

 それでも政府や報道、テレビは、影響ない、食べて応援、絆と言い続けました。私は、政府のことも報道も鵜呑みにしてはいけないのだと、人生で初めて痛烈に感じました。

 自宅窓から見える、私が育ってきた森、子どもたちもここを自由に駆け回って育つだろうと思っていた森。

その森にも等しく放射性物質は降り注いだのだと思うと、見た目はそのままに美しい森がまるで違って見えました。取り返しのつかない汚してしまったものの大きさ、一人ひとりの大人の責任の重さを遅ればせながらやっと感じたのです。

 

(3)

 原発事故から1ヶ月、双子の赤ん坊を抱え、仕事にも復帰をし、だけどこの原発の問題に向き合うと決心をしました。当時、放射能を心配する母親たちのことを、神経質だとか、放射能ノイローゼだとか、証拠を示せだとか、様々な批判の言葉が飛び交いました。

 自分の子どもを守るという生き物としての本能を否定される社会は恐ろしいと思いました。

 どんな状況にあっても、子どもを守りたい。それが母親たちの共通の願いです。そしてそのためには、もう原発はいらない、これ以上核の汚染を繰り返してはいけない。このシンプルな道こそ、私たち一人ひとりが声を上げていかねばならぬものだと強く思いました。

 そして私はその思いに共感してくれる母たちを募り、母子の写真を撮り始めました。2011年、4月のことです。ブログで思いを綴ると会ったこともないたくさんのお母さんからメッセージが来ました。どう声をあげていいか分からなかったという、普通のお母さんたちです。一人ひとり会いに行って撮影をし、この声が一部のものではないと知らせるために、100人は絶対に撮ろうと決心しました。

 そして2012年、原発はもういらないと声をあげた母たちの写真集「100人の母たち」を出版しました。

 新聞、雑誌、テレビ、多くのメディアに取り上げられ、全国の有志の方たちによって、100カ所以上で写真展が行われました。お隣の国韓国でもソウル市庁のロビーを始め、50会場で開催されました。

 それはひとえに、もうこの世界のどこでも原発の事故を起こしてはならないという、どこまでもまっとうな願いによるものです。

 

(4)

 2011年8月、私たちは家族会議を重ね、東京から福岡へ移住することにしました。安心して食べ物を買える。窓を思いっきり開けられる。海で泳げる。山を歩ける。水道の水を飲める。雨にも濡れられる。洗濯物や布団を思う存分干せる。子どもに泥遊びさせられる。そうした当たり前に思えた、だけど何より大切な日常の喜びを味わいました。

 今暮らす糸島は海に山に川に農作物に恵まれた、本当に愛すべき土地です。この土地は、私たち世代だけのものではありません。これから先の子どもたちにも残していかなければなりません。人間だけでなく、様々な動植物の生態系が織り合わさって生きています。

 しかし、糸島市は玄海原発から30キロ地点にあります。

 

(5)

 今年の3月23日、玄海原発の再稼働に向け、糸島で住民説明会が行われました。到底受け入れることの出来ない説明ばかりされていました。その中でも、九州電力取締役山元春義さんは「どうして原発を再稼働しなくてはいけないのか?」という問いに

「2011年に玄海が止まり、厳しい電力需給の中、火力発電も動かした。他電力から買ってお届けするという悔しい思いもした。今後は福島の経験を九州電力としてしっかり捉えて、川内そして玄海原発を復帰させて安定した電気をお届けしたいのでご理解頂きたい」

と述べたのです。福島の事故が起きて、本当に悔しい思いをしたのは誰でしょうか。

 今も増え続ける、小児甲状腺癌という病を患ってしまった子どもたちへ思いを馳せることはないのでしょうか。

 「原発さえなければ」と遺言を残し自ら命を経った酪農家さんへの一雫の申し訳なさも感じないのでしょうか。

 

(6)

 私たちはまっとうに生きたいのです。

 福島の事故で、原発はどんなに安全対策をしたとしても事故は起こってしまうものだということがはっきりしました。玄海原発で事故が起きれば、偏西風に乗って九州はもちろん四国、中国、近畿、関東、東北、北海道まで放射性物質が飛散し、夥しい数の市民が被曝します。そして世界中の海や土地も汚染します。 

 福島原発の2号機では今も650シーベルトという数十秒で人が死に、ロボットさえも数時間ももたないような前代未聞の状況が続いているのです。 汚染物の入ったフレコンバックは増え続けています。原発の事故は分断や貧困、いじめを引き起こします。いつでも何の罪のない子どもたちが被害者となります。

 どうか私たちの道徳心を歪ませないでください。子どもたちに、間違った道は正せるんだよという、当たり前のことを教えさせてください。

 

(7)

 糸島で暮らして4年。3.11のとき生後6ヶ月だった双子の息子は今、小学一年生になり、地域の人に見守られながら学校生活を満喫しています。放課後には海、川、山で駆け回って遊んでいます。糸島で生まれた3番目の息子も健やかに育っています。

 私の願いは、この日常を守りたいということ。ただ安心して暮らしたい、その憲法でも認められている権利がこのままずっとこの土地で守られていくことです。そしてそれを守る国であってほしい。

皆んなが考えを新たに、安心して信頼しあえる未来を築いていくために、玄海原発の再稼働をどうか許さないでください。

 

今日はお話を聞いてくださりありがとうございました。感謝致します。

 

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2017年12月1日 意見陳述 亀山ののこさん
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平成23年(ワ)第812号, 平成24年(ワ)第23号, 平成27年(ワ)第374号
九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第24回口頭弁論公判(2017年12月1日)における意見陳述です。

陳 述 書

2017年12月1日

佐賀地方裁判所御中

住所 福岡県福岡市

氏名 野口 春夫

 

(1)

 私は大分県津久見市で牧師をしている野口春夫と申します。津久見市と福岡市を行ったり来たりする生活をしています。今日はこの機会をお与え下さった事に感謝致します。

私は1941年日本が無謀なアメリカ合衆国との戦争を始めた年に、日本が侵略して作った国旧満州、現在の中国東北部の大連で生まれました。4歳の時、日本の敗戦を迎えるのですが、日本に引き揚げるまでに外地での人間同士の見苦しい争い、女性を守るために女性たちを男装させる苦労、私を買いに来た(「預けなさい」と言う)中国人を追い返すまでの母親の苦労、日本に帰る順番を早くするため他人を騙すこと、等々を成長して母から聞きました。今でも思い出すのは大陸からの引き揚船上で亡くなった人のことです。本土を見ないで亡くなった方は、布切れに包まれて板の上を滑らされ、海に落とされ、魚の餌食となり終わりという、人間の尊厳は何も無い儀式を見たことです。

 

(2)

 引き揚げて来て福岡市に住みました。1982年に九州電力が福岡市内に「九州エネルギ-館」を造りました。ここには、市内外の多くの学校の生徒や一般の社会人が見学に来ていました。館内では模型でしたが、本物と同じ大きさの玄海原子力発電所原子炉の発電機能が見せられたものです。「これからの発電エネルギ-は、石炭でも石油でもなくコストが安い原子力である」という「原子力信仰」が見学者に刷り込まれました。当時は原子力発電が一歩間違えば、広島・長崎に落とされた原爆と同じで、大変危険なものだとはつゆ程も知りませんでした。それどころか未来の電力はこれだと思い込まされました。

大学を卒業し、佐賀県と福岡県の県立高校に奉職しました。福岡で最初に勤めたのが現在の糸島市にある農業高校でした。学校の前の国道202号線を「放射能のマ-ク」を付けた車、その前後には厳重に守る警備の車列が定期的に通っていました。それは勿論玄海原発にウラン燃料その他を運ぶ危険なものでしたが、いつからか船で運ぶようになり、見られなくなりました。この高校は当時、佐賀県の高校の学区も特別に引き受けており、玄海原発から20キロ付近の佐賀県浜玉町(今の唐津市)のミカン農家の子弟も県境を超えて通学していました。

二番目に勤めた高校は工業高校でした。この高校の電気科・工業化学科では、卒業して九州電力や電源開発に入ることが大きな目標の一つであり、生徒たちは就職試験の受験先推薦を受けるため勉学を競ったものです。ですから電力会社に就職が決まると他の科の職員も喜んだものです。電気科ではカリキュラムに工場見学があり、生徒は3年間の内一度は玄海原発を見学に行きました。工業高校に通った生徒たちは、小学校か中学校で「エネルギ-館」を見学し、工業高校の電気科等に入ると今度は模型でなく、本物の原子力発電所を案内され、「夢のエネルギー」という「原子力信仰」を二重に「教え込まれた」のです。

定年退職後、私は神学部に入り直し牧師になりました。そして今住んでいる津久見市にある教会の牧師になって15年になります。津久見は「セメントの町」です。セメントの原料がとれる所は地盤が固いので、かつて原子力発電所の候補地に挙げられましたが、住民の建設反対運動もあり、建ちませんでした。

 

(3)

2011年3月11日、「東日本大震災」が起こったあの日、ここ佐賀地方裁判所では「プルサ-マル裁判」の第二回口頭弁論が開かれており、私も傍聴に駆けつけていました。入廷直前に、東日本で大地震が発生したとの速報が入りました。地震と津波に襲われた原子力発電所も大事故になるかもしれないと、みな口々に心配していました。そして、東京電力福島第一原発では、専門家も指摘していた甚大な大事故へと発展してしまいました。今も避難して故郷に帰れない人が10万人近くもいるのです。

ところでセメントを生産するには、石灰石だけではなく、必ずその他の原材料も混ぜなければなりませんが、大震災の後、震災で発生したガレキを津久見に持って来てセメントの原料に使おうという動きがありました。しかし、放射能汚染を心配した子育て中のお母さん方が中心になり、署名を集めたり、新聞にチラシを入れたり、「ガレキ受け入れ反対」の運動が起こりました。大分県主催の「説明会」でも、放射能による健康被害を心配して、受け入れ反対の声が続出しました。私が「放射能被害が出たら責任を持てるのか」と質問すると、説明者の一人は「放射能は身体に入っても、トイレで排泄するから、大丈夫」などと回答しました。本当に驚きました。結局、大分県は「ガレキの津久見への受け入れ」を諦めざるを得ませんでした。

今は、福島の石炭火力発電所で使ったオ-ストラリア産の石炭の燃えカスをセメント材料としてセメント会社は使っているようですが、市民団体では常時「放射能」の測定を行って監視しています。

この放射能こそが問題なのです。

 

(4)

 かつて大分県では、四国電力の伊方原子力発電所が事故を起こせばそこから放射能が海上を直線距離でやってくるというので、伊方原発設置反対運動が繰り広げられてきました。そして今、東京電力福島原発事故、及び事故処理の様子を見て、これではいけないと「伊方原発の廃炉を求める裁判」も起きています。

津久見市には玄海原発の事故の時には山越えで放射能が、伊方原発からは海上を60キロ真っ直ぐに放射能等がやってきます。両方が同時に事故を起こすと、放射能が「ステレオ」でやってくるのです。リアス式海岸と山に囲まれ、マグロやミカンなど海の幸、山の幸の豊かなこの津久見の町に住めなくなってしまうのではないかと、私たちは戦々恐々としているのです。

 

(5)

私には辛い出来事があります。あこがれの九州電力に就職した教え子が卒業して数年で自ら命を絶ってしまったのです。理由は分かりませんが、この教え子の死は忘れることはできません。

そして、私には心配なことがあります。もしも、玄海原発が事故を起こしたら、佐賀や福岡の教え子たち、それに元同僚の教師たちを含む多大な人々が一番に放射能の被害を受けるかもしれないと。勿論私自身は「ステレオ」で原発事故による放射能の被害を受ける危険の中にあるということから解放してもらいたい願いがあります。

原子力発電所の広報宣伝を行い、「原子力信仰」を植え付けていた「九州エネルギ-館」も東京電力福島原発事故を機に、2014年3月、約700万人の方々に「原子力信仰」を宣教して閉館になりました。今はマンションの用地になっているようです。

 

敗戦の引き揚げの混乱の中で、人間の醜い争いを見て来て育った者として、原発事故後の混乱等が重なって見える時、その様な心配が無いところに日本を変えて貰いたい、そのためにエネルギ-館と同じように原子力発電所が静かに消えていただくことが-宗教者の願いであります。

 

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2017年12月1日 意見陳述 野口春夫さん
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佐賀地方裁判所平成25年(行ウ)第13号 
玄海原子力発電所3号機、4号機運転停止命令義務付け請求事件

第15回口頭弁論公判(2017年9月15日)における意見陳述です。

陳述書
2017年9月8日
佐賀地方裁判所御中
住所 長崎県平戸市生月町
氏名 伊福 規
(1)
本日は意見陳述の機会を与えて頂き有り難うございます。私の住まいは玄海原発からおよそ40キロ地点の平戸市生月島です。高台にある私の家からは北東方向遮るものもなく玄海原発が望めます。一旦福島のような過酷事故が起これば放射性物質は風に乗り易々と私の島に数時間のうちに届き島中に降り注ぐことでしょう。福島第一原発は背後に山地を控え遮るものもありますが、長崎県北部地域には海を越えてまっすぐに五島列島まで放射性のプルームが到達します。特に今の季節は盆北と呼ばれるお盆過ぎの強い北東季節風が玄海灘から吹き寄せます。玄海町からは一時間もかからず風が達することでしょう。
(2)
多くの国民が福島第一原発事故のような過酷事故は起こらないと信じ込まされて来ましたが、事故は起こりました。想定外という言葉がメディアを通じ私たちに言い訳として発信されました。しかしどのような言い訳をしても被ばくした人々や生き物達、大地や海にはなんの救いにもなりません。地震の被害は時の経過とともに国や国民の熱意や努力で復興がなされることでしょう。しかし放射性物質に汚染された人や生き物、大地や海はその後の長きに渡りその影響を受け続けます。
そのような人智を超えた悲惨な被害を何世代にも渡ってもたらす危惧のある原子力発電を廃止し、持続可能な自然エネルギーを利用した発電システムに国を挙げて取り組むことこそ、未来の理想的エネルギー社会の構築であると我が国は方向を定めるべきです。
想定外で起こる放射能事故。処理方法のない使用済み燃料や放射能汚染物質の増大拡散。そのツケを次世代はおろか未来の数十、数百世代に渡って残す権利は今を生きる我々にはありません。間違いを素早く認め、より安全な社会の構築に向け全国民が力を合わせ負の遺産を処理して行くことが重要だ、私にも何か出来ることがあればと、居ても立ってもいられない思いで原告団に参加しました。
(3)
私は生月島に生まれ中学まで育ち、高校は下宿で佐世保市の高校に行きました。中学同級男子100名中50名が地元の巻網漁船員として就職しました。当時高校に進学出来たのは経済的理由で2割程度、多くは中卒後島に残り大工や左官、土方になりました。女子は集団就職でその多くが都会に行きました。
高卒後大学に進学、10年の都会暮らしの後、子供を授かり子育ては自然豊かな故郷の島でと思い、家業の鉄工所を継ぐため家族を連れ島に帰りました。
鉄工所の仕事は主に漁船の修理で漁師とともにある生活です。小中学校以来の友人達の漁船を修理し沖に見送るのが日常でした。生月島は漁業、農業、港湾建設業そして橋が架かった現在では観光業を主な産業としています。平成3年、生月大橋が平戸島との間に掛かり平戸島を介して生月島は九州本土と陸続きになりました。それまで離島ゆえ観光客がほとんど訪れることのなかった島は週末、観光客で溢れました。島興し運動のボランティアに参加していた私は観光客に島の特産品をアピールした商品を提供したいとの思いで、アゴダシラーメンを開発し「大気圏」というラーメン専門店を開店しました。その目的は二つ。第一に観光客に生月島の特産品を提供し喜んでもらうこと。第二に地域限定的にしか知られていなかった「アゴダシ」の魅力を広く世間に伝え需要を喚起し「アゴ」の価格安定を通じアゴ漁師の収入向上を目指すというものでした。当時のアゴ漁は豊漁になると価格が暴落し約1ヶ月半の漁期を終えると、今年は赤字だったという年もよくあり悲喜こもごもの漁師の暮らしぶりを身近に感じていました。それから25年が過ぎた今、北海道から沖縄まで日本全国「アゴダシ」は広く知られることとなり今や5倍10倍の高値安定が定着しました。わずかひと月半の秋のアゴ漁で得られる収入は500万から1500万。アゴ漁に携われば1年間の収入の多くが得られる島の漁師にとって、漁師を続けて行く希望と安心が得られています。
そのアゴはお盆過ぎに吹くボンギタと呼ばれる北東季節風にのって日本海から掃き寄せられるようにこの地域にやって来ます。平戸島と生月島に挟まれ北東方向に開いた大きな湾は袋小路のアゴの吹き溜まりとなり、我々の暮らす目の前でアゴ漁が繰り広げられるのです。アゴダシに適したトビウオはこの時期のこのサイズ、まさに平戸生月で漁獲されるものしか全国に類例を見ません。
島に恵みをもたらすボンギタが放射性物質をもたらすことにでもなれば、私たち島の歴史や文化そして平和な生活はすべて失われます。地元に残り島の生活を守って来た我々はどうすればよいのでしょう。福島原発事故後の住民の悲劇を見れば、誰も真剣には救ってはくれない、国家も当てには出来ない、ましてや電力会社など自らの身の始末もおぼつかないことが誰の目にも明らかです。一体、一企業に大地や海を汚染し、多くの国民と子孫に悲劇をもたらすことが危惧される事業を推進する権利があるのでしょうか。
(4)
私の鉄工所は2012年、東北大震災の復興支援のため東北岩手県の大船渡に約半年社員を派遣しました。その任務を全うしたのは全国で我が社一社だけでした。最悪のもしもを考え家族のため社員全員に高額の保険を掛け、余震が続く中、津波で被害を受けた漁船の修理復旧に当たりました。私も東北に行き震災の被害を目に焼き付けて来ました。そして福島の現状を見ておこうと福島県に移動し二本松市に投宿し地元民の案内で原発30キロ圏内の強制避難区域の波江町、葛尾村、田村市の山村を車で巡りました。線量計は常に危険な数値を指し示し続けました。自然豊かな山や畑、一見平和な村には人影は無くまさにゴーストタウン。新築のきれいな家も徐々に荒れ果てて行く様が感じられました。そして田んぼには表土をはがし集められた黒いフレコンバッグが山と積まれた光景をあちこちで目にしました。村を後にし強制避難区域外の農家に立寄り話を伺いましたが彼らは遠く九州から取り寄せたお米を食していました。そこで聞いたのは福島の米は沖縄に行ってるという話でした。そして先の見えない不安を訴え、田畑は除染しても山は除染できないからいつまでも山から放射能が漏れだして来るという現実でした。
私はこのような救いがたい悲劇をもたらす危惧のある原子力発電は人類とは共存出来ないという確信を得ました。
(5)
去る3月、九電や国による玄海原発再稼働住民説明会が実施されました。再稼働ありきの説明会。主催者は再稼働にご理解をと平身低頭のお願いをするばかりで、参加した市民の理解を得ることなど到底出来るような説明会ではありませんでした。一例をあげれば航空機が原発施設に墜落する可能性は天文学的数字の確率であり問題ないと。私は質問しました。「北朝鮮が複数発のミサイルを施設に打ち込んだ時どのような被害と対応を想定しているか。」答えは「そのような事態については考えていない。」と。
結局原発は安全だという答えを導くために用意された設問に対しての検討結果の一方的説明に終始し、住民の不安や不信感とまともに向き合う姿勢のないことがはっきりしました。会場は怒りと不信感に満ちていました。
後日、平戸市議会は全会一致で再稼働反対を決議。県や国の決定に従うと表明していた市長も議会の後追いで反対を表明せざるを得ませんでした。
想定外によって起こった過酷事故。我々素人の一般市民でも想定できる差し迫ったミサイル危機は想定外で処理される。このような欺瞞に満ちた国や電力会社は全く信用できずだれもが責任を取らない、いや取れないような事業は即刻中止、廃止することを強く、強く求めます。
最後に九電の取締役が締めた哀願の言葉が今も耳に残っています。その要旨は「社員や家族の生活が懸かっているので原発再稼働を認めてほしい」
以上です。
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2017年9月15日 意見陳述 伊福規さん
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平成23年(ワ)第812号, 平成24年(ワ)第23号, 平成27年(ワ)第374号
九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第23回口頭弁論公判(2017年9月8日)における意見陳述です。

陳 述 書

 

2017年9月8日

佐賀地方裁判所 御中

住所 佐賀県唐津市厳木町

氏名 田口 弘子 

 

   

(1)

私は唐津市内、玄海原子力発電所からは32kmほどの距離にあるところに住んでいます。標高410m、いわゆる山間僻地といわれるところです。

私は、今年3月まで唐津市と多久市の小学校で教諭として子どもたちとかかわりを持ってきました。私が教員になったのは中学校の教員をしていた父の影響もあったと思いますが、子どもたちの成長に関わり見守ることのできる教員という職業に魅力を感じたからです。しかし、実際、学校に勤務するようになってからは、被差別部落や解放運動と出会ったことで、それまで自分の見てきた世界とは違う厳しい社会の現実と出会い、自分の認識の甘さ・視野の狭さを感じました。そして、市民運動・社会運動に関心をもつようになりました。それまでの私は、国や県は私たち市民にとって悪いことはするはずがない、と信じていましたから、何でも鵜呑みに受け入れていたように思います。また、そうするものだと思い込んでいたように思います。

原子力発電についてもそうです。巷にあふれている原子力発電についての情報は、どれもいいことばかりですから、なぜ、反対するのか逆に反対の理由がわかりませんでした。まさか、そんな危ないものを作るわけないでしょう、とか。現に、原子力発電で潤ってるでしょう、とか・・・。そんな私にとって、プルサーマル実施に関しての県民投票を求める署名活動が、私の原子力発電についての認識を変える大きな契機となりました。そのころ、署名を集めるために県内のあちこちで学習会が開かれ、そこでいろいろな情報を得るなかで原子力発電と放射能被害について自分や命との関わりを意識するようになりました。そして「原子力発電所」はそこにあるだけで、もう凶器ではないかと思い始めたのです。そのころ、「安全なら、東京に原発を作るべき」という科学的データに裏付けされた劇映画「東京原発」を観たのも大きかったと思います。

また、学校では8月6日・9日を平和教育の節目のひとつとして、いろいろな取り組みをしていますが、子どもたちと学習する中で、広島原爆のウランと長崎原爆のプルトニウムがどちらも原子力発電所の燃料として使われているということを改めて認識し、「原爆」「原子力発電所」「放射能」が私の中でつながり、「原子力発電は怖い」と思うようになったのです。北朝鮮がテポドンを打ったとニュースが流れたとき、あれが原子力発電所に落ちてきたらどうなるのだろうと本気でどきどきしていました。

そして福島での事故が起きたとき、私はインターネットの画像で事故が起きる様子が流れるのを見ていました。よそ事のように。にわかには信じられませんでした。でも、本当に大変な事故が起きていました。そのとき、アメリカから即座に救助に駆けつけた軍隊がすぐには福島には行かず、日本海のほうに回り道をしたというニュースを見ていて、なぜだろうと思っていたところ、それが被ばくを恐れてのものだったという情報がとても衝撃的でした。一方で、そのとき、事故が起こった報道はあっても、放射能についてはあまり公にされていなかったような気がします。また、ここで避難している人たちはこの情報をどうやって得るのだろう?我が家みたいにテレビも持たず、携帯も圏外になるような場所だったら、どうやってこの情報を得たらいいのか?など、わが身と考えたら、なす術がないことにも身が縮む思いをしました。また、うちのように積雪や土砂崩れで山から下りることがままならぬ事もある地域で、うまく避難ができるかどうかも不安です。

 

 

(2)

 小学校では、2ヶ月に一度避難訓練を行なっています。火災、地震、風水害、不審者対応、原子力防災など、安全教育の一環として非常時の避難の仕方を学ぶものです。学校ごとに避難計画が作られそれに基づいて、実施しています。

 原子力災害についてはここ数年で行うようになりました。最初は学校ごとに作った計画で進めていましたが、昨年は教育委員会からマニュアルが届きそれに準じた計画が求められ、今年はそれに基づいて避難訓練が行われるでしょう。これまで、原子力災害といえば、とにかく屋内退避(目には見えない放射性物質を払い落として立てこもる)を行なっていましたが、熊本での地震をきっかけに職員間で問題になったことがあります。それは、地震の際は屋外に退避するのが基本ですが、同時に原子力災害が起こった場合どのように避難すべきなのでしょうか。福島の事故はまさに複合災害となり、甚大な被害をもたらしたのです。

また、原子力災害に関わらず、災害時に子どもたちを保護者に引き渡しをする場合も想定して引き渡し訓練も行うようになりました。ここでまた、疑問。引き渡しをする体育館の出口から保護者の車まで放射能で汚染された空気の中を移動することになるけど、大丈夫なの?車を誘導する職員は汚染された空気の中で誘導可能なの?「今だったら移動してもいいよ」と誰が判断するの?学校に線量計があるわけでもなく、委員会からの報告待ちということになるのでしょうが、現場で子どもを預かる職員にとっては不安の種ばかりです。

学校の職員は原子力災害の実際や放射能汚染について、あまり詳しく知りません。特別に意識のある職員以外は、文科省から配布された「原子力読本」による情報ぐらいしか持たないと言っていいと思います。当然、子どもたちの持つ原子力災害や放射能に関する知識もその程度です。その「原子力読本」は、福島での事故後に出されていますが、放射能は事故がなくても一定量自然界にあることや、医療現場で放射線を浴びていることなどを引き合いに出して危険ではないということをアピールしています。でも、実際には福島は高濃度で汚染され、事故の際の放射能が原因と思われる疾患が現れていることを小児科の医者たちが報告していました。

学校の現場は、学力向上の掛け声のもと、職員は休憩も取れないほどの忙しさの中で児童の安全を確保しつつ教育活動を展開しています。天災は避けようがありませんから、そこから身を守ること、また、身を守る術を学ぶことは生きる力を学ぶことでもありますが、原子力災害は、原発が無ければ起こりようがないのでそれを取り除くことで、避けられるのではないでしょうか。多忙な教育の現場に、さらにこのように煩雑で先の見えない原子力災害避難訓練の計画や実施に時間を割くのは本末転倒している気がします。

 

(3)

国と県が行った原子力災害避難訓練を昨年と今年と見学しましたが、原子力災害であっても、自然災害であっても危険から遠ざかる・逃げるよりほかに術がないのは明白です。ただ、原子力災害において最も危険な要因が放射能であることを考えると、どんなに綿密な避難計画・防災計画を立てたところで住民や地域の安全確保は難しいのだと感じました。一番の防災は危険要因である放射能を取り除くこと、すなわち原子力発電所の撤去しかありません。原子力発電所を稼動するということは、事故が起ころうと起こるまいと悪魔の物質プルトニウムを生産し続け、放射能汚染の危険を抱え続けるということを忘れてはいけません。

 放射能は、目に見えません。音も臭いもありません。触ることもできません。日常の生活の中で汚染が起きたとしても、それを知ることは難しいし、自分の体に変調をきたして初めて汚染されていたのだなと気づくことになることを考えるとき、放射能と切っても切れない原子力発電所の近くで子や孫を育てることは、大きな不安を伴います。自然の中でのびのびと育てたいのにそれができない環境にしてはいけません。 

 

(4)

 私たちの子どもや孫の命のためにも、一刻も早く原発を止めてください。いえ、先に書いたように、原子力発電所は稼動していなくてもあるだけで凶器である、と私は思っていますので、一刻も早く撤去されることを願っています。

 

以上

 

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2017年9月8日 意見陳述 田口弘子さん
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平成23年(ワ)第812号, 平成24年(ワ)第23号, 平成27年(ワ)第374号
九州電力玄海原子力発電所運転差止請求事件
第22回口頭弁論公判(2017年7月28日)における意見陳述です。

陳 述 書 

                                    2017年7月28日 

佐賀地方裁判所御中              

 住所 福岡市        

氏名 松 尾 邦 子

 

(1) 

本日は意見陳述の機会を与えていただきありがとうございます私の住まいは玄海原発からおよそ40キロ地点福岡市早良区南西です。30キロ圏外ではありますが、福島の事故のような過酷事故が起きれば放射能空気風にって周囲都市をも汚染し続けるのは想像に難くありません福島の事故でいまだにふる里に戻れない人々の悲しみや苦しみを思うにつけ日本は2以上原発なしでらすことができた今、この玄原発はもちろん過酷事故を起こしかねないすべての原発とたまり続ける核のゴミを未来ある子供たちに残してはいけないと思って原告になりました

 私は長年教職ついていました退職まもなくして20113月のあの東日本大震災福島原発事故起きたのです。それからずっとずっと心を痛めて生活をしてきましたそのような中、たまたま2014年の月から約3年間、地域の民生児童委員になりました私は教職の経験や長年独り暮らしだった母への想いを生かして活動しました。中で感じたことを中心に原子力災害に対する不安を意見として述べたいと思います。 

 

(2) 

はじめに民生児童委員の仕事の一つに「要援護者」の対象となる方の把握高齢者の現状の確認があります。「要援護者」とは要支援、要介護認定を受けている方で、まったく身寄りがない、もしくは近くに身寄りがなく災害時に周り助けが必要な方です。私の地域は前年度からの引継ぎで65歳高齢者の夫婦2人だけの世帯は31世帯、一人住まいの高齢者は25その中で、要援護者は7名でした。そこでまず、65歳以上の約170世帯あいさつ回りをしました。その結果、引き継いだ要援護者7名のほかに心配な方が次々にみつかりましたこの方たちは、自分の事情を近所に知られたくない、あるいは迷惑をかけたくないという理由から公的名簿に登録したくないと同意書提出されていません。同意されないと、プライバシー保護のため地域における協力は依頼できない仕組みになっています。私の担当地区では次のような方々がいました。

 

40代で脳卒中の病気で歩けなくなった車いす生活のAさん足が痛くて時々何日も家から出られなくなるBさん、お酒を飲み続け近所との付き合いが希薄Cさん、心臓病や糖尿病を持ち足にしびれや痛みがあるDさん被曝手帳を持ち腰痛がひど数か所の病院に通うEさん、夫婦二人住まいでも、どちらか片方が脳梗塞の後遺症歩行困難であったりアルツハイマー病が進行中であったりのFさんとGさんよそのうちに上がり込んだり、町内を一日中ぐるぐる回ったりの認知症を患うHさんIさんご主人はの手術後体調悪く、奥さんはパーキンソン病のJさんご夫婦そして、姉弟3人とも精神障害で、別な意味でさらに厳しいKさん一家など・・・です。どなたも薬を複数服用されていて緊急時の避難と避難生活は耐えられないだろうと思われました。こういう我が家も高齢者の2人暮らしです。連れ合いは心筋梗塞、脳梗塞経験者で薬が欠かせません。名簿に載ろうが載るまいが、詳しい事情が分かるのは民生委員ですが、災害時一人では助けられません。20名を超える方々の避難はのどんな協力の下でどうやって助けるか考えれば考えるほど不安になりました一応町内防災組織というものは存在しますが形式的なもので、どのように助けるかまでは話し合われていないのが状でした。これまでそれで済んだのは幸いにも大きな災害はなかったからでしょう。しかし年々風水害、土砂災害、地震の災ひどくなりそうな日本です。福島の原発事故があった今、これからは原子力災害も考えていかなければならない時代になったです。 

 

しかし、私の知る限り早良区ではこの3年間、原子力災害について町内会で具体的に話し合われている所はないと思います。福岡市では年一回夏に市長と代表民生委員との懇談会がありますので私はし合いのテーマに原子力災害時の要援護者避難について話し合ってほしい」と毎年提案しましたが、懇談会のテーマにふさわしくないなぜか却下されてきました。それでも気になる要援護者の避難について学ぼうと私は昨年秋糸島での避難訓練見に行きました高齢者や障がい者施設では、ほんの一部の職員が数人の入居者の代わりをしての簡単な避難訓練でした。一町内の訓練健常者が補助具を付けたりしただけの訓練で福岡市の避難所に向けてわずか1台のバスでの避難でしたから、実際に起こったとき役立つとは言えないものでした。さらに今年の春、知り合いの小中学校の管理職に尋ねたときは、「子供たちの避難について教育委員会からは何の指示も降りてきていない。」と話していましたもし在校中に原発事故が起きたらどうするのでしょうか?二週間プルームが通り過ぎるのを学校で窓を閉めて待つのでしょうか?必要なヨウ素剤の保管場所や服用の仕方を知っている人はいるのでしょうか?そもそも福岡市では防災危機管理課の避難計画案はまだ暫定版のままです。緊急時の対応が住民に周知徹底されていない中で原発再稼働はどう考えても許されないと思います。 

 

(3) 

次に福島の事故後の話で感じたことです。避難の途中で、あるいは避難の長期化で心身共に状態が悪化し亡くなったり生きる希望をなくした高齢者孤立死されたり、農業や畜産の方の自殺など多く聞きました。厚生労働省自殺対策推進室の調査では(東日本震災に関連する自殺者数平成234月294月分)福島県が一番多く90名、次が宮城の52名、そして岩手の44名です。(ちなみに茨城1埼玉1東京2、大阪1、京都1)又家族がバラバラになることが長期化して子供たちにも親にも悪影響が出てきていることを耳にするにつけ、心が痛みます。一番悲しくて震える思いで怒りがこみ上げたのは、避難先の学校で原発事故が理由のいじめ遭った子供たちがいたことでした。想像してください、自分の子供が、自分の孫がそんなつらい立場にいたらといじめられた子供たちは何の落ち度もないのに事故のせいでいじめられるのです。地元に住めず、離れざるを得ないことだけでも傷ついているのに電力会社は少しでも責任を感じているでしょうか 

 

今年も九電の株主総会では「事故が起きないように固い決意を持って取り組むから安全です。」と九電経営陣は言ました原子力規制委員長「安全とは言ない。」と公言しているのに、いつの間にか「絶対安全と置き換えられているのです。事故というものは、いつも想定外が重なって起こるものです。絶対はないのではないですか?それに安全と言いながら一方で瓜生社長はアメリカの遺伝学者の説を取り上げてこう述べられました。「どんなに少ない放射能でも体に害はあるそうです、放射能は自然界にもいろいろなところに存在するその中で、それらを体に受け止めながら生き延びていく人類、種が出てくるのだそうです。」と。私は耳を疑いました。今生きている人間、そしてすべての生き物が原子力の災害にあわないように質問しお願いしている場でこのような話を披露する社長の感性を疑いま社員を含めてひとり一人の、家族の営みに目を向けることなく放射能に負けない人類や生き物の出現を夢見ながら会社の経営を考えておられるのでしょうか。 

 

(4) 

民生委員や地域の役員は、避難が困難な人たちの顔を思い浮かべながら日々見回っています。30キロ圏外であっても156が住む福岡市、全体では50万人が住む福岡県も、重大な原発事故の発生でその暮らしが影響を受ける地元なのです。人間だけではありません。福岡動物園の動物たちペットや野生の生き物たち、避難の通学、仕事、通院、食料、薬は?などなど私たちには具体的に何も知らされていません。住民への情報周知を含めての避難計画完成されていない現状です。九電がよく口にされるフェイストウフェイス丁寧な説明福岡の人間にはされないまままた自治体の避難計画避難後の生活補償計画成がないままの玄海原発再稼働は、子供たちや社会的弱者の生存権を脅かすものです。 

原子力災害は、人災です。動かさなければ危険度は段に下がります。やめていただくよう心から訴えして私の意見陳述とさせていただきます。 

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2017年7月28日 意見陳述 松尾邦子さん
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